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◆仕事が大好きなわたしが、アイデンティティについて考えた話

「かわいいねー」
「大人しいねぇ」
「いい子だねぇ」

目の前で我が子がほめられている。

「ありがとうございます」

わたしは笑顔でそう言いながら、頭を下げる。


誰の手柄?

週に何回あるだろうか。
すれ違うだけの他人であっても、このやりとりはかなりの頻度で起きるイベントである。

子どもを抱いていなければ言葉を交わすことが一生なかった人と、このご時世であっても、マスクの下で笑顔を交わすのだ。赤ちゃんってすごいな。

そう思う反面、わたしは心の中でこうつぶやく。

「わたしは何もしてないんですけどね」と。


満たされぬ欲求

いつからだろうか、
我が子が「かわいい」「大人しい」「いい子」と言われるが、「それは我が子が持って生まれた個性であり、わたしの手柄ではない」と、
気づいたのは。

はじめは単純に嬉しかったし、「そうでしょ?」と喉の手前まで出かかり何度飲み込んだことか。会う人会う人から「かわいい」のカツアゲをして歩き回っている気分だった。

しかし、繰り返すが、その可愛さはわたしの「努力」の結果でも「工夫」の成果でもない。
そしてこうも思う。
「嬉しいけれど、わたしがほめられてるわけではない」と。

仕事が大好きなわたしは、お察しの通り、「承認欲求」が人一倍強い。

仕事では成果報告は欠かさないし、半期に一度の評価期間に提出するシートは所定の枠に収めようとするあまりフォントが小さ過ぎて見づらい、と注意される。

‥‥今は30代で役員も10歳20歳年上だからまだ「粋がいいお姉ちゃんだねぇ」で済まされるけど、あと5年10年経つと自他共に認める「おばさん」になったら何て思われるんだろう。疎ましがられるのかな、、、

ま、そんな心配はおいておいて、

そんな(承認欲求の塊である)わたしだから、
我が子に向けられた褒め言葉が自分の行為へのものではないことに気付いてから、どこか虚しさを感じるようになった。


母親にとって子どもとは

妊娠中、とあるSNSでこんな投稿を見つけた。「子どもにとって親なんて人生のモブキャラ」

またある時、わたしの母親がこう言っていた。「あなたが実家を出るときに、私は子どもは預かり物、だと思うことにした。そうやって割り切った」

そう、親は子どもの「主導者」でもなければ、子どもは親の「所有物」でもない。

だから、我が子が褒められることを誇らしく思ってもいいが、自分が褒められているのだと錯覚しては大変。子どもを自分のアイデンティティ、と見誤る。その勘違いがいわゆる「毒親」を生むのでは、、、?

妊娠する前と同様に、子育てをしつつも、わたしはわたしとしてのアイデンティティを携えておくのだ。

妻、母、そしてひとりの人間としてのわたし。

そう思ってから、些細なことだがママ友を呼ぶときに名前で呼ぶようにしている。(〇〇ちゃんママではなく、ミホさん、という様に)そうすると、必然としてわたしも「リョウコさん」と呼んでもらえる。

そうすることで、母としてだけでなく、ひとりの人間として、意見を言ったり、気持ちを伝えたり、立ち振る舞えたりする。中には「ママ友」というより「同世代の友だち」という感覚に近い関係になることも。これは、育休中かつ、コロナで旧友と対面できない、という状況において、とても貴重な出会いである。


結局のところ

でも、我が子が褒められるのは嬉しいのは嬉しい!
だって、うちのおちびは「かわいい」し、「えらい」し、なんだったら「絶対に性格がよい」のだからw
自分の手柄じゃなくとも、我が子が褒められるのは素直に嬉しい。それでいいじゃないか。


でもでも、もしあなたのパートナーが子育て中の母親だったなら、もしも隣の席の同僚が働きながら子どもを育ててるのならば、こう言ってあげてほしい。

「あなたの子が今日も元気なのは、あなたが頑張ってるからだと思うよ」と。

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