等身大の自分でいること

20代前半の頃、港区に憧れていた私は

家賃12万ほどのグレードの高い分譲マンションに引っ越すことにした。

当時OLをしていたが、OLの給料では賄いきれない家賃や

生活費のために銀座で働くこともあった。

夜のお仕事や、色々なお仕事を経験した今は

港区に住んでよかったなと思っている。

ずっと住みたいか、と言われたら、私には敷居が高く

居場所としては心地よくなかったため

引っ越す事に決めたが、ここ2年の生活はすごく充実していた。

東京の中でも、群を抜いて富裕層が多い港区。

経営者や士業をはじめとする、お金持ちの知り合いも増えた。

その関わりの中で、色々な厳しい意見を言われたことがある。

まだ若かった私は、若毛のいたりで

少しでも背伸びしようと、給料の大半をブランド品に使ったり

高い服を着たり、グレードの高いマンションに住んだり

外見だけを取り繕うことに躍起になっていた。

そんな時に知り合いの社長さんに言われた言葉。

「外見をブランド品で固めてるけど、ブランドの由来だったり

創始者の思いだったり、考えたことあるの?」

唖然とした。その時に自分が如何にミーハーであり、

「流行を追いかける自分のないただの人」ということに気付かされた瞬間だった。

追い打ちをかけるように、

「外見ばかり取り繕うというのは、”自分に嘘をついていること”と

一緒だからね」と言われた。

なぜ、外見だけ繕うことが自分に嘘になるのか、

その時は理解できなかったが、家に帰ってしばらくそのことについて

考えてからようやく意味を理解した。

「中身や芯がないから、ブランド品やミーハーなもので

身を固めることなのかな」と。

それは、中身のない自分に気づかないための

カモフラージュであると。

これまでお金をかけていたことも、ポリシーも何もなく

欠如した自己像を、誤魔化すための道具に過ぎなかったということだと。

その時から、意識が変わったのか最近は”等身大の自分でいたい”

という思いが強くなっている。

あの時の、港区での青二才の私にかけてくれた厳しい言葉がなければ

ずっと私は気づかずに、見た目だけを繕っていたのかもしれない。

外見だけ綺麗な果物も、みずみずしく見えても

中を開ければ腐っていれば意味がない。

”外見を取り繕うだけ”というのは脆いものである。


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