天才数学者の岡潔は日本人に警告する「出発点が間違っている」と。
夜雨の声 岡潔著 角川ソフィア文庫 から抜粋 P191
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出発点が間違っている
日本人は応神天皇以後、外国の文化を無批判にそっくりそのまま取り入れて
その中に住むというやり方ばかりをしてきている。
最初、中国の文化を採り入れ、次いで仏教を採り入れ、明治以降は西洋の
文化(昔はギリシャ、今は欧米を西洋といっているのだが)を採り入れている。
そして終戦後その度合いは著しく濃くなって今日に至っている。
かように今の日本には千五百年来の外国の思想や言葉がごちゃごちゃに入っているが、もっとも、明治以降に入った文化が強く外部にあらわれているので、それ以前に入った文化は比較的隠れているようにである。
いろんなことが混然と入った結果として、同じ言葉が違った内容を表すというような事態が生じてきた。
例えば「心」という言葉の内容は日本と中国と、および仏教と西洋とでは皆違うのに、それを日本人は「心」と同じ一つの言葉でよんで平気な顔をしている。
今、日本は深海の底にいるのだというような気がする。
それで日本の人々に代わってここで一度だけ批判というものをしてみようと思う。西洋の思想の基礎になっているのは自然科学であるから、まずこれをよく調べてみよう。
自然科学の先端は素粒子論である。素粒子論は次のように言っている。
素粒子は非常に種類が多い。しかし、これを安定な素粒子群と不安定な素粒子群とに大別することができる。
不安定な素粒子群は非常に寿命が短い。あらわれてはまたすぐ消えてしまっている。その寿命は、最も普通にみる不安定な素粒子についていえば、百億分の一秒くらい。
このように短命であるが、非常に速く走っているから、生涯の間には一億個の電子を歴訪する。電子は安定な素粒子群の代表である。いったい、何がどうなっているのだろう。
人は古来、自然はじっとあるものとのみ思ってきた。しかし、素粒子論によると、自然の一半はあらわれてはまたすぐ消えていってしまっている。
それならば、存在ではなくて映像である。他半はどうだろう。
安定な素粒子の代表である電子をとってみてみると、電子は絶えず不安定な素粒子の訪問を受けている。それならば安定しているということが確実にいえるのは外形だけであって、内容については全くわからない。
やはり、あらわれてはまたすぐ消えていってしまっているのかもしれない。
むしろ、多分そうであろう。
それならば、他半も映像である。かように、自然は完全に映像であるか、そうでなければ半映像(映像のようなもの)であって、ともかく存在ではない。
西洋人は、五感でわからないものはないとしか思えない、まことに珍しい人種(思考的人種)である。それで自然を調べるときも、五感でわからないものはないと暗々裡に仮定して調べていたことになる。
そうすると、不安定な素粒子というものが発見された。不安定な素粒子の生まれる前の状態および消えていってしまってから後の状態は、明らかに
五感ではわからないものである。
かように五感でわからないものはないと仮定して調べていくと、結果は多量に五感ではわからないものが出てしまった。
これは明らかに出発点の仮定が間違っていたということだから、一切を御破算にして初めからやり直さなければならない。
すなわち、自然科学というものは無いのである。
素粒子論は出て既に久しく、もはやポピュラーな知識になっている。これをみれば私が今述べてきたことは自明であるのに、西洋人は一人としてこれがわからないのである。
西洋人という人間はなんという愚かさだろう。ところが日本人はその西洋人のいうところをそのまま鵜呑みにして、鸚鵡(おうむ)の口真似式これを繰り返しているにすぎない。
日本人という人間、これもまたなんという愚かさだろう。
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ふぅー。面白い内容で思わず徹夜して岡潔さんの文章を書き起こしてしまいました。
それと、「出発点が間違っている」というのは、この体のエゴだけが自分!と言う思い込み出発ではなく、
すべてが繋がっている「仏教の悟りの世界」から出発することだ、という
メッセージのような気がします。
そこで。
仏教と量子力学の関係性を自分がプレゼンしてますので・・・
↓
https://www.youtube.com/watch?v=agq4HVGfj0w
岡潔さんのメッセージと繋がると思ったので、興味ある方は
参考までに。
※人間の5感覚ではわからないし、それが科学の限界だから、シュレテンガーの猫のことも分からなくなるし、
「人間には、自由意志あるの?自由意志ないの?」
という議論も終わらない。