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戦う坊主「僧兵」で寺を燃やし、薙刀で坊主を脅す私。

昔に、ZEN(禅)という映画のエキストラに出演したことがある。

それは戦う坊主「僧兵」で、武蔵野丸弁慶のようないでたちで、寺を燃やし、薙刀で、そこの坊主を脅す、という役柄だ。

そのシーンをもう一度、見てみたい、と思い映画をYouTubeで見れることを知り、視聴した。

が。

自分がどの僧なのか、まったく分からない、と言う確認に終わり、
あぁ、そういえば、

寒い冬の時期に、5時間もロケバスの中に監禁されて、腰につけた薙刀が、体をしめつけて、苦しい・・・(汗)という感覚をも思い出し、

撮影は何度もしたけど、その映像は、一瞬で終わる、という。

映画って凄い大変だな、努力をした数パーセントしか映像に残されないんだから、と思いながらも、悟りには興味あるので、

映画を最後まで見た。

その中で、道元さんが言っている言葉が、今の自分の生活にも、かなり役に立つ、学べるというものがあり、

思わず、メモ、メモ。。。

こんなセリフ、あなたは、どー思います?
  ↓
道元さん:
「良いとか悪いとかの考えも捨てて、考えること、あるいは悟ろうとする
こと、一切の意図や想いを巡らすことを辞めるのだ。

これを非思量(ひしりょう)という。」

そして、さらに・・・

「只管打坐(しかんたざ)、そのものが悟りである」

と。

只管打坐(しかんたざ)は、ただ座る、ただ座禅する、ということだそう。

これ。なかなかー。難しいんじゃないか、と。

ただ座る、ただ座禅する、ことも、結局は、悟りたい、心を穏やかにしたい、という目的、意図が発生してしまう。

生命として生きるために人は、思考をマイナスからプラスに変えることを
する、努力するという人類の試行錯誤で形作られていると思うから。

思うから、どーしても、目的、意図を持ってしまう。持っちゃうなぁ、と。

目的、意図を持たず生きる、とは出来るのか?出来ないのか?

そんな想いがふと湧き上がり、じゃぁ、目的、意図を持たずに、フラフラ
散歩するか、と外にでる。

でるが!

目的、意図を持たないで散歩する、という目的、意図が発生してしまうことに気づいた!

あ。この矛盾、この禅問答のようなループをどう突破するんだろう、とは思いながらも、

朝、5時にブラブラと散歩してみる。

ぼー、としながら。

けど、目的、意図を持たずに歩くだけで、すごく自分を内観できることを発見できた。

青の信号が点滅し、赤に変わるのを見た。

今までならば、あ、早く渡らないと、と小走りで、歩道を渡る。

けど、そこで、のんびり歩き、青が赤に変わり、その場に立ち止まる。

すると、急いで時間に追われている自分を発見する。資本主義社会自体が、効率、スピードの正しさに埋没されて、機械的条件反射の環境の奴隷になっていることすら気づかない。

さらに、

ビアガーデン、8月31日までドリンク全額半額!という看板が目に付く。

それにしても、「半額」というメッセージは人の感情を動かすなぁ、とは思いながらも、実は、お金に困っているという認識の人ほど、このキーワードに飛びつき、

結果的に、お金に困るというアイデンティティーを蓄積し、それが「半額」と言う言葉の支配力をさらに増大化させてしまう。。

もしも自分のアイデンティティーがこの世界は全て自分のお金だ、という認識ならば、半額と言う言葉には何も価値を持たなくなる。

と・・・・。

何気なく見たり、聞いたりする現象に対して、こんなにも自分を内観できて、いろんな気づき、人類史をも感じれるとは。

道元さんの意図をもたない、という悟りのメッセージは、かなり面白いな、とは思った。

思ったが、道元さんの限界ポイントもみえてきた。

それが釈迦の教えが仏教の出発であるが、釈迦の限界も同時に突破できてないことが浮き彫りになった感じがした。

釈迦の限界を語るなんて、えらそーに、と思うかもしれないけど、2000年以上前の人よりも、

現在に生きる人間の方が、優れている、いや優れていないとおかしいし、悟りが深く、いや釈迦よりも深くなってないと、おかしい。

おかしいと思うのは、自分だけ?

2000年間、人間は何をしてきたの?と問いたくなるのは、自分だけ?

という想いが溢れてくるけど、釈迦の限界というのは、自我(エゴ)がよくないもの、真理を妨げるもの、と言う認識を

突破できなかったんじゃないか、と思った。

そこと繋がるけど、因果というカルマから抜けることは、もしかしたら、釈迦本人はできたのかも?しれないけど、

それを伝えることには失敗していると思う。

その証拠に、前世とか、来世では、幸せになるから、今世では人に善徳を
施しなさい、という仏教の教えを信者さんたちは、

一生懸命頑張っているから。

人を幸せにする、そのために人に親切をする、と言う行為が素晴らしい、という仏教の教え。

この教えって、人を幸せになる、人に親切にする、人を思い遣る、って人それぞれのイメージがバラバラで、

良かれが悪かれに、悪かれが、良かれになってしまうことなんて、ざらにある。

小さな親切、大きなお世話と言う言葉どおり、いらない親切、いらない優しさ、いらないどころか、

イラっとする、怒りすら出る、そんなことをされる場合も、たたある。

なので、人を幸せに出来るわけがないし、幸せの定義も、人それぞれバラバラ。

バラバラどころか、人間の歴史は争い、戦争の連続で、なぜ人は争うのか?戦争を起こすのか?の原因を誰も解明できてない。

人間とは何か?という哲学がすたれきっているのもあるけど、お釈迦様の

「自我(エゴ)がよくないもの、真理を妨げるもの」という正しさによって、
正しさと正しさがぶつかって、争い、戦争が起きると思う。

なので、正しさ0%になる必要があるし、その思考を全部捨てる技術も必要になる。

正しさが0%になる技術。

それが今までになかった。それが悟りの究極の技術である、悟りすらない!という境地。

実は、自慢話しに発展するけど、自分はその悟りすらない!という究極のイメージできないイメージできる技術に出会った。

だから、釈迦や、道元さんの限界ポイントがみえて、今まで人間が争い、戦争が起きてしまうのかも原因が分かってしまっている。

そんな悟りや、戦争の起きる原因について、今後は、語っていきたいなぁ、と思う。

ZEN(禅)の映画を視聴し、いろんな学びがあったので、これからも、悟り、戦争、など多岐に分かって、映画の解析などもしていきたいなー、と

ふと思った。


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