日本人口のいま昔、あっちこっち
明治時代の府県別人口
「第1回日本帝国統計年鑑」に載っている明治時代1882年(明治13年)の府県別の人口は次の通り。(プレジデント・オンラインの 記事 より転載)
人口が多い順に1位から40位まで並べたものだが、現在の「47都道府県」と数が合わない。次のような課題を考えてみた。
私はまず現在の都道府県と比べてみた。上表にある「堺」は今の「大阪府堺市」のことだろう。表の「堺95.7万人」と「大阪58.3万人」を合わせた人数「154万人くらいが現在の大阪府内に住んでいた(※1)」ということだろう。
また40位の「開拓使」は現在の「北海道」のことだろう。アイヌの人たちが「16.3万人」の中に含まれているのかどうかは分からない。
以上のことを踏まえて、現在はあるけれども表にはない県が8つ。現在の地図を持ち出して、1つずつチェックして、それら8県を拾い出した。そして、次のように私は考えた。合っているとは限らないが、「当たらずとも遠からず」だろうとは思う。
米どころ、北陸の人口が多い。表のランキングのトップ2を占めている。トップ2であわせて 358.0万人。今の首都圏にあたる場所すなわち東京・神奈川・千葉・埼玉の当時の人口があわせて375.1万人で、ざっくり言えば、ほぼ同じ。(※2)
四国はそのころ「二国」だった。九州はそのころ「五州」だった。(※3)
(※1) 後でわかったことだが、当時の堺市は現在の奈良県を含んでいた。したがって「154万人くらいが現在の大阪府 ならびに奈良県 に住んでいた」が正しい。
(※2) 2019年10月1日時点の北陸4県、首都圏1都3県は次の通り。(総務省統計局のデータより)
北陸4県の人口は合わせて 517万人で、明治初めの頃のざっと1.4倍になった。首都圏1都3県の人口は3673万人で、明治初めの頃のざっと10倍になった。
(※3) 四国にはその昔「伊予・土佐・阿波・讃岐」の4つの国があり、現在でも「愛媛・高知・徳島・香川」の4つの県があるが、明治の初めには四国は「二国」だった。
九州にはその昔「筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩」の9つの国(州)があったから今でも九州と呼ばれている。現在では「福岡・佐賀・長崎・熊本・大分・宮崎・鹿児島」の7つの県があるから「七州」と呼んでも良さそうなものだが、明治の初めには九州は「五州」だった。
日本海側で人口が最も多い自治体はどこか?
日本海側で人口が最も多い自治体はどこか?
日本海側といえば、かつては裏日本という蔑称とも言える言い方があった。その場合、表日本とは太平洋側を指す。陽のあたる表側と陰になる裏側というところか。山陽(中国地方瀬戸内海側)と山陰(中国地方日本海側)という言い方は、今でも正式な名前である。
実際、日本海側は太平洋側に比べていろんな点で遅れをとった。人口は太平洋側へと流出し、人口は増えず、過疎化が進んだ地域も多い。冬になると雪が降り、しばしば雪に埋もれる。
そこで調べてみた。以下の数は、2020年の国勢調査による市(政令市を含む)単位の人口である。
例えば、金沢市(石川県)は45万人。新潟市(新潟県)は79万人。ちなみにこれは世田谷区(東京都)の人口90万人よりも少ない。青森から山口にかけて、これより人口が多い自治体はない。
でも、その外側にあった。北九州市(福岡県)が95万人、福岡市(福岡県)が155万人。だいぶ南西方向に進んで、日本海の出入り口と言えそうな場所でもあるが、なんとか日本海に面しているという言い方はできそうだ。札幌市(北海道)は196万人だが、地図で市の境界線を確認すると、もうちょっとのところで日本海に面していない。惜しいところではある。
せっかくだから、日本海に面している他の国、韓国とロシアも見てみた。韓国では日本海の出入り口に位置する釜山が341万人で、同じく蔚山に115万人。もうちょっと日本海に入り込んだところでは、浦項に51万人。ロシアではウラジオストクの61万人が最大。こうして見ると、日本海側の人口は、出入り口付近を除くと、やっぱり少ない。
ところで、日本と東アジアの地図を通常とは上下逆さま(上が南で、下が北)にしてみると、日本海側のポテンシャルの高さが感じられないだろうか。大陸との関係いかんによっては、日本海側が栄える可能性は高いと思うのである。
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