ラオスで感じた懐かしさを考える
4年ぶりのラオスで変わったこと
4年ぶりにラオスにやってきて変わったことの1つは「ラオスの首都ヴィエンチャンと中国とを結ぶ鉄道が通った」ことだ。4年前には工事現場で子供たちが遊んでいた。
そしてもう1つ、ルアンナムター名物の バンブー・ブリッジ がコンクリート製の橋に架け替えられていた。以前は片側通行でバイクまでは通っていたが、今では車が対面で通れるようになった。
昨日ルアンパバーンから再びラオス中国鉄道に乗ってルアンナムターまでやってきた。それはそれは快適だった。
今日は朝から雨で午前中お宿にいたが、午後雨が止んだ隙に4年ぶりにバンブー・ブリッジを見に行ったつもりが、無かったのだ。
そう、ラオスでも確実に交通網が整ってきている。近代化が進んでいる。(2023.08.02)
懐かしさを求めてルアンナムターを歩く
前に私が写真付きで投稿した ルアンパバーンの街中の様子 を見て「懐かしい!」と言ってくれた人がいた。コメントのやり取りを通して「ここ数十年の間に日本で何が変わったのか?」についてお互いが考えたことを、その人の言葉を借りながら、私の言葉も交えてまとめてみよう。
各人がバラバラにやっていた経済活動を → 大資本で区画整理した
どこにでもある当たり前の不確定さを → 排除して無かったことにする
そこで、さらに懐かしさを求めてルアンナムターの街を歩いてみた。
市場に行ってみた。生産者から誰かが集めてきてここに届けて、ここから小売店の店先に並ぶのだろう。この形の市場は今時の日本には無い。そもそも小売店が無い。全く無いとは言わないが、ここラオスにある数とは比べ物にならない。
そこにいる鶏は、つい先ほどまで誰かの家の庭を歩き回っていたヤツだ。そこに並んでいる野菜は、近所の家庭菜園でできたもののうち、その家族では食べきれなかった分だ。(現実にはいろんなケースがあるのだろうけれど「当たらずとも遠からず」ではあるはずだ)
街を歩いていると、子供たちの声がよく聞こえる。横浜のウチの近所とは大違いだ。そこには2つの要因があるのだろう。1つは子供の数、そして外で遊ぶ頻度。
紐を引っ張りあって遊んでいたり、何人かでバイクに乗って突っ走ったり。塾に行っている様子は無い。スマホをいじっている子もいない。子供の声はすぐ分かる。子供の声が聞こえるだけで「懐かしい」と感じる、と言ったら言い過ぎだろうか?
街中の所々に古タイヤで作ったゴミ箱があった。これが懐かしいに該当するかどうかは分からない。
考察を続けよう。先ほど「不確定さを排除しようとする社会」と言ったが、子供ほど不確定なものは無い。そう考えると、今時の日本では子供を持つことは大きなリスクなのだろう。だから、そのリスクを上回る確実な利得が見込めなければ、子供を持とうとしないのは当然の帰結だろう。
反対に、ラオスで子供の声がよく聞こえるのは、不確定さを当たり前のものとして受け入れているからだろう。運とか縁とか、そんなものを当たり前のものとして受け入れるかどうかの差。(2023.08.02)
ラオス・ミャンマー国境へ向かう
ラオス北部の街ムアンシンからミャンマーとの国境の街シェンコックまで70km。ガイドさんのモーターバイクの後ろに乗って、途中の少数民族の村を見学しながら往復した。
地図で見ると、ムアンシンからシェンコックまでは1本道で青字で「17B」と書いてあるから、国道レベルの道のはずだ。ムアンシンから中国国境までは10kmで、中国とミャンマーをつなぐ主要道路でもある。
実際、中国からやってきたらしい大きなトラックがたくさん走っていた。にもかかわらず、未舗装道路なのである。未舗装道路を往復140km。季節は雨季。案の定、よく降った。
往路、道路にできた水溜りでカモらしき水鳥が泳いでいた。この水鳥たちも地元民の食料であるに違いないが。
復路、往路よりもさらに悪条件になって、ある場所でトラックが立ち停まっていた。様子見か、あるいは無理と判断したかのどちらかだ。
別の場所ではトラックがスリップして道を塞いでいた。バイクだけはなんとか脇から通せたが、車は無理。いつなったら通れるのか、私は知らない。バイクは通れると言ったものの、雨で弛んだ路肩を壊しながらの通過だから、バイクが通れなくなるのも時間の問題だ。
ガイドさんは「片道2時間半、途中の村をのんびり見学しながら行っても、往復8時間で余裕」なんて初めは言っていたが、実際にはバイク移動だけで往復7時間以上、見学時間を含めて10時間の長旅だった。私は何度もバイクから降りて歩いたよ。
メコン川がラオスとミャンマーの国境になっている。シェンコックはメコン川に面したラオス側の街で、ラオス人とミャンマー人は出入国できるが、外国人はできない。
いや、観光旅行者はこんな時期にそんな道を進んではいけない。私も他人にはそうアドバイスするだろう。とは言え、自分のこととなると話は別だ。きつかったけど、危なかったけど、びしょ濡れになったけど、行って良かった!(2023.08.05)
村のシンボル、民族のシンボル
ラオスには少数民族がいくつもあって、民族ごとに文化や言葉が異なる。1つの村には同じ民族が暮らしていて、村が違うと、着るもの・家の建て方・共有地のあり方・宗教、いろんなことが違う。村に入ると、村ごとに「空気が違う」、そんな言い方もあながち誇張ではない。
さて、私が不思議なのは、村同士が隣り合っていても、民族が異なれば、なかなか混ざり合わないこと。争っているような気配もない。それぞれの村(民族)が自分たちの文化を守りながら、お互いを尊重して暮らしているようだ。
もっと不思議なのは、同じ民族であれば、遠く離れた村であっても、同じ文化であること。街から何時間も歩いてやっと辿り着く山の上の村と、比較的大きな街に隣接してある村と、幹線道路沿いにポツンとある村と、何十km離れていても、同じ民族なら同じ言葉を話し、同じ風習であるようなのだ。
上の写真はラオス北部のムアンシンからシェンコックの間(距離にして70km)にある村のもの。
そのうち上側の3枚は、それぞれ別のアカ族の村。4本の棒を立て、上で繋いで、ブランコのように何かを吊り下げられるような構造になっている。いずれも村の外れにある。
コロナ(covid-19)前の2019年にルアンナムターからトレッキングで訪れた アカ族の村 にも同じようなものがあった。先ほどの村からは40〜100kmほど離れている。それでも同じ民族で、同じ文化。そのことが驚きなのだ。
下側3枚の写真はそれぞれ別の民族の村。これらはどちらも村の中心にあるモニュメント。
それぞれ、村のシンボルでもあり、民族のシンボルでもある。
◇ ◇ ◇
〜 4年ぶりの海外旅行はラオスへ 〜
▷ 4年ぶりの海外旅行はラオスへ
▷ ラオス中国鉄道に乗る
▷ ラオスで感じた懐かしさを考える
▷ ヴィエンチャン女子の祈り
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?