不要不急を誰が判断するのか?
不要不急なら当面「先送り」、必要至急なら今すぐ「実行」だ。
ところで「不要か、必要か」「不急か、至急か」は本来、個人の価値観の問題、すなわち「主観」だ。ところがみんなが口にすることで、それが「客観性」を持つかのような様相を帯びてくる。
個人の価値観だから、その判断には元々幅がある。すなわち誰もが認める「必要至急」はそんなに多くない。けれども「そこに客観性がある」という勘違いが働けば、多くのことが「不要不急」に割り振られることにもなりかねない。
そこが怖いところだ。つまり「不要不急」という言い方は、判断を各人に委ねている素振りをしながら、実は外から決めつけている、そんな魔力がある。各人が「必要至急」と判断しても、世間が「不要不急」と判定するかもしれない、そんな可能性を秘めている。
それが主観の範疇なら個人が判断すれば良いことだ。他人にどうのこうの言われる筋合いはない。一方、それが客観の範疇なら、みんなの言い分、社会の意見に従わなければならない。個人の判断に委ねる訳にはいかない。
もう一度言うが、「不要か、必要か」「不急か、至急か」は価値観の問題、すなわち「主観」の問題だ。他人にどうのこうの言われる筋合いのものではない。
コロナ禍の今、「外出するな」「家にいろ」と言うことに対してどうのこうの言うつもりはない。けれども、その際に「不要不急」を言うのは余計なお世話なのだ。
ある人の行動が「不要か、必要か」「不急か、至急か」を当人に判断させないのは、その人をまるで信用していないということだ。当人に変わって判断してやろうという発想は、思い上がりだ。2重の意味で間違っている。
それが判断できるのは自分だけだ。理由は簡単、それが価値観だから、主観だから。
さて、「不要不急」と言ってるうちに、やるべきこと・やりたいこと・やらなきゃいけないことがどんどん溜まってしまう。そうは言っても溜まるにも限度がある。だからその多くを結局やらないことになる。こうして「不要不急」の掛け声は「やるな」に等しい効果を持つ。
でも考えてみると、そもそも文化は不要不急である。ここで言う文化とは、遊びや学びを含む。そしてそれは経験や感性と深く結びつく。
だから、まず一般的なこととして言えるのは「むしろ不要不急なことをやれ」ということ。「不要不急の外出こそするべきだ」ということ。
とは言え、コロナ禍の今、外出を勧めるのは止めよう。私が言いたいのは、他人の行動について「不要不急」という言い方をするな、ということ。
くれぐれも、自分の行動が「不要か、必要か」「不急か、至急か」を判断できるのは自分だけだ。知事であれ誰であれ、その判断を他人に委ねることは、原理的に出来ない。
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〜 屁理屈から理屈を取ったら屁だけが残る 〜
▷ 「がんばりたいと思います」の構造
▷ 思考の止め方、話の止め方
▷ 不要不急を誰が判断するのか?
▷ いじめと言わず、スクハラと言おう