オリンピックと神さま
連日のように「神さま」という言葉をテレビやラジオで聞きます。普段の生活でこんなことは稀です。オリンピックのせいですね。ワールドカップとかの大きな大会があるときも、メダルを手にした選手や惜しくも逃した選手、そして、その様子を解説する人たちが「〇〇の神様が△△した」と語るのをよく聞きます。その上、オリンピックの発祥は、神話の国ギリシャですから、神さま談義は相応しいのかもしれません。けれども私は、その言葉を少々複雑な気持ちで聞いています。その理由は次のようなことです。
私は日曜日に教会で礼拝を捧げるクリスチャンで、長い間、キリスト教文書の仕事にしてきたので「神さま」という言葉が身近にあります。「神さまが導いてくださるから大丈夫」とか「神さまにおゆだねしよう」とかいうように。でも、宗教を胡散臭いと感じる人たちが、周りに少なからずおられることも、その方々がそう思う理由も分かるので、周りの人が嫌な気分にならないように「神さま」という言葉は心の中にしまって、表に出ないように気をつけて暮らしています。だから、「神さま」が公共の電波に乗ってやって来ると、すごく妙な感じなのです。
トップアスリートならば「ゾーンに入る」という経験をしているはずです。感覚が研ぎ澄まされた超集中状態は、異次元の世界ですから、宗教体験に似ていて、彼らにとって「神さま」は、遠い存在ではないのかもしれません。以前、長野で開かれた冬季オリンピックの選手村でチャプレン(牧師)をしたという女性から話を聞いたことがありました。国を背負って戦う重圧に押しつぶされそうだから「祈って欲しい」と言って来られた選手が何人もあったそうです。カウンセラーではなくてチャプレンというところが意味深ですね。宗教云々ではなく、自分たち人間より大きな力をもつ何らかの存在は、多くの人の心が認知していて、その認識が、ここぞとばかりに表面化するときがある。そして、その「神さま」が、今、公共の電波に乗って私のところに日々やってきているのでしょう。
私はクリスチャンですが、他の宗教の話を聞くことも好きです。なぜなら、それらの宗教にも、人の心の奥深い情念のようなものが表されているだろうと思うから。洗礼を受けた当時は(もう40年も前の話ですが)、そういう話を聞くのが怖かった。他の宗教だけでなく、小説や詩、歌詞のある歌とか、恋愛話とかも。喜怒哀楽といった一時的で表面的な感情ではなく、その奥にある人間の情念のようなものに触れると、自分の信仰が揺らいでしまうのではないかしらと不安でした。でも、今はむしろ逆です。年の功というのでしょうか。よく分からないですが、人の心を知ることは、神を知ることにつながるように感じています。(写真は私が通う教会です)
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