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ワーホリ・いまむかし

ワーキングホリデーで渡豪する人が増え、ビザの発給数は過去最大になっているそうです。先日の朝日新聞に1・2面で大きく取り上げられていました。しかし、多くの人が仕事探しの厳しさに直面しているとのこと。豪州はインフレが続いているので、職探しは、きっと大変ですよね。

実は、私が人と少し違った人生を歩み始めたきっかけはワーホリでした。

私は、1981年、大学の英米文学科を卒業した後、大阪市内の国際特許を扱う弁理士事務所で働き始めたのですが、その仕事(そして職場)が不向きなことは、入所数ヶ月で自明の事実となりました。けれども、大学の就職活動の際、四年生大学を卒業する女子を求める企業は無きに等しいことを思い知らされたていたし、「女性の転職など不遜極まりない」が、当時の社会の常識だったので、私は困っていました。「このまま我慢してしばらく働き、見合い結婚するのかしら…。それが私の人生なの?」と…。(今では隔世の感がありますね。)

そんなモヤモヤの中、ワーキングホリデーのことを知ったのです。ワーキングホリデーは元々、オーストラリアが英連邦の4か国の若者の相互交流を促すための制度でしたが、1980年、日本が第4番目の国として、その制度の対象国になりました。まだ出来て1年そこそこ。当時はネット情報などありませんから、ほとんど知られていない制度でした。

しかし、私は動き出しました。「背水の陣」という気分でした。

周りの反応は
「そんなことしたら、お嫁のもらい手が無くなるよ。絶対にダメ!」

今、こんなこと言いませんよね。

とにかく、私の決意は固く、すったもんだの1年の末、ついに貯金を下ろして航空券を買い、シンガポールとシドニーを経由して、1982年8月、メルボルンのタルマリン空港に降り立ちました。20時間以上の空の旅を経て外に出ると、簡素な駐車場の脇に若い桜の木が数本あって、花が5分咲きぐらいでした。それを見ると急に心細くなって泣いてしまったのを覚えています。

渡豪前にした最低限の準備は、身元保証人的なオーストラリア人夫婦と、家をシェアする同年代の女性を紹介してもらったことでした。日本から持ち出したお金は、航空券を買った残りの貯金、20万円ぐらいだったと思います。当時の大学卒の初任給は11~2万円ぐらいでしたから、今ならば50万円ぐらいの価値でしょうか。

翌年の6月まで滞在していて、その間、3つのアルバイトをしました。ウィークデイは11時から2時半頃まで大聖堂の地下にあるカフェで皿洗いとキッチン補助。時々夕方には、知り合ったプログラマーの自宅兼事務所でデータ入力をしました。パソコン以前の話です。タッチタイプが技術と考えられていた時代だったので、時給は良かったように記憶しています。

そして、月に一度か二度、週末に日本人観光客相手の販売員をしました。当時、オーストラリアで週末に開店する物品販売店は無かったのですが、日本の大手の旅行会社と契約のある土産店やオパールの販売店は、観光バスが到着する時間に合わせて数時間、店を開けていたのです。週末の時給は土曜日が通常の1.5倍、日曜日は2倍でした。

英語の勉強がてら、教会付属のソーシャルワーカーの事務所で電話交換手のボランティアもしました。スイッチボードの扱いを間違えたり、なまりのある英語が聞き取れなかったり、ヘマも多かったのですが、当時のオーストラリア人は大概ゆったりしていて、いつも親切に教えてもらえました。

こんな風に働き、生活しながら、日本とは違う価値観を日々体験し、メルボルン市内、ビクトリア州の観光地を見て回り、エアーズロックへのキャンピングツアーをしました。タスマニア島もキャンピングツアーで巡りました。特にエアーズロックへの旅は、同年代の旅人が多く、楽しくて思い出深いものになりました。当時はエアーズロックの頂上まで登ることもできました。

また、キリスト教の「求道」らしきことを始めて、洗礼を受けたのもこのときです。宗教に対しては大学時代から関心がありましたが、キリスト教に入信しようと思ったことはありません。けれどもメルボルンでの色々な出会いを通して、本気で信仰の世界に足を踏み入れてみようと思うようになりました。そういう意味でも、ワーホリは、私の人生を方向づけた体験でした。






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