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北九州キネマ紀行【若松編】小津映画に〝登場〟する葦平作品〜同時代を生きた2人の戦争体験のこと


(掲載のイラストはイメージです)

映画「麦秋」に〝登場〟する「麦と兵隊」

小津おづ安二郎やすじろう(1903〜1963、以下小津)と言えば、「東京物語」などで知られる映画監督。日本映画史の教科書には必ず名前が出てくる人。

その小津作品に、若松(福岡県北九州市若松区)出身の芥川賞作家、火野ひの葦平あしへい(1906〜1960、以下葦平)の作品が出てくる映画がある。

それは1951(昭和26)年公開の麦秋ばくしゅう
主演は、原節子。
この年のキネマ旬報の日本映画ベストテンで1位になった。

この映画に(一瞬ではあるけれど)葦平の「麦と兵隊」が出てくる。
「麦と兵隊」は葦平が1938(昭和13)年に発表した従軍記。

小津と葦平は、ほぼ同時代を生き、ともに日中戦争に従軍した。
小津はなぜ「麦秋」に葦平作品を出したのか‥‥。

「麦と兵隊」はベストセラーに

日中戦争は太平洋戦争につながっていった


「麦と兵隊」は、葦平が日中戦争の徐州会戦に従軍中、その体験を日記形式でつづったもの。
1938(昭和13)年8月、雑誌「改造」に発表され、単行本は120万部を超えるベストセラーになった。

この時、葦平は小説「糞尿譚ふんにょうたん」で、すでに芥川賞を受賞。
葦平は受賞後、中支派遣軍報道部に転属になり、「麦と兵隊」を書いた。
この後、続いて「土と兵隊」「花と兵隊」を発表し、これらは〝兵隊三部作〟と呼ばれている(「土と兵隊」は映画化され、1939〈昭和14〉年公開。田坂具隆ともたか監督)。

なぜ「麦と兵隊」は爆発的に読まれたのか。
それは、当時の中国での戦場の情報を日本の国民が強く求めていたから。

「美談や忠勇記のようなものが多かった当時のジャーナリズムの中で、多くの写真とともに〈生きた兵隊〉の姿を伝える記録文学は国民に熱狂的に迎えられた」という(北九州市立文学館10周年記念誌「北九州の文学」)。

しかし、葦平は戦後、これらの作品によって占領軍から〝戦争協力者〟と看做され、公職を追放される(1950〈昭和25〉年に解除)。

「僕アちょうど『麦と兵隊』を読んでて‥‥」

さて、小津の映画「麦秋」。
この映画は、小津のディスコグラフィの中で〝紀子のりこ三部作〟の一本に数えられる(他の2作は、原節子が同じ紀子の名前で出演した「晩春」〈昭和24年〉と「東京物語」〈昭和28年〉)。

「麦秋」の舞台は戦後。
ドラマの軸になっているのは、婚期を逃しかけた娘・間宮紀子(原節子)の縁談をめぐる話だ。

喫茶店で2人はお茶を飲みながら話した

葦平の「麦と兵隊」は、東京の喫茶店で、紀子と、戦死した(と思われる)紀子の兄・省二(映画には直接出てこない)の友人、謙吉(二本柳寛)との会話に出てくる。

(シーン111)
お茶の水附近の坂道
紀子が謙吉と一緒に歩いてくる。
向こうに見えるニコライ堂ーー

(シーン112)
ある喫茶店
窓から見えるニコライ堂ーー
紀子と謙吉がお茶をのんでいる。


謙吉「ーー昔、学生自分、よく省二君と来たんだよ、ここへ」
紀子「そう」
謙吉「ンで、いつもここにすわったんですよ」
紀子「そう」
謙吉「やっぱりあの額がかかってた‥‥」
紀子「ーー?」(と見る)
ミレーの『落穂拾い』の古ぼけた額ーー
謙吉「早いもんだなア‥‥」
紀子「そうねえーーよく喧嘩もしたけど、あたし省兄さんとても好きだった‥‥」
謙吉「ああ、省二君の手紙があるんですよ。徐州戦の時、向こうから来た軍事郵便で、中に麦の穂が這入ってたんですよ」
紀子「ーー?」
謙吉「その時分、僕アちょうど『麦と兵隊』を読んでて‥‥」

紀子「その手紙頂けない?」
謙吉「ああ、上げますよ。上げようと思ってたんだ」
紀子「頂だい! ーー(ふと見て)あ、来たわ」


(紀子のもう一人の兄・康一〈りゅう智衆ちしゅう〉が入ってくる)

「小津安二郎全集」下巻(井上和男著)収録の「麦秋」シナリオ=脚本は野田高梧と小津

葦平と小津が経験した戦争「盡きることのないすさまじい麦畑」


謙吉のセリフに「徐州戦」という言葉が出てくる。
徐州戦(徐州会戦)は1938(昭和13)年、日中戦争で行われた戦闘の一つ。

葦平はこの会戦に従軍し、「麦と兵隊」はその様子を描いた。
葦平は戦後、「麦と兵隊」についてこう記した。

私も分隊長として、杭州湾敵前上陸以後、兵隊の惨苦と犠牲との姿はいやというほど見て来ているけれども、徐州戦線の相貌そうぼうは一種独特なものであった。

それは多分、果てしもなくひろがつて、行けども行けどもきることのないすさまじい麦畑のせいであつただろう。

「火野葦平選集第二巻 戦争小説集(戦前)」の葦平による「解説」=「葦平曼陀羅ー河伯洞余滴ー」収録

葦平がいた中国の戦場は、広大な麦畑が広がっていた。
そして映画の中で謙吉が、紀子の兄・省二から来た受け取った郵便の中には「麦の穂」が入っていた。
それは省二が現地の空気を伝えようとして忍ばせたのか。
その麦は、葦平がいたのと同じ大地から根を伸ばしたもの。

小津と葦平の接点を考える時、「麦」(麦畑)の意味が重要になってくる。

麦畑が広がっていた

「輪廻」「無常」を描きたかった

小津は自作「麦秋」について、こう述べている。

「これはストウリイそのものより、もっと深い《輪廻》というか《無常》というか、そういうものを描きたいと思った」

「キネマ旬報」昭和27年6月上旬号「小津安二郎・自作を語る」=田中眞澄編「小津安二郎戦後語録集成」収録

小津は葦平が「麦と兵隊」を発表した前年、1937(昭和12)年に応召され、上海へ。
小津もまた徐州会戦に従軍し、中国各地を転戦した(毒ガス部隊に配属されたという)。

「麦秋」のラストシーンは、カメラが移動しながら大和の麦畑を写す。
麦畑の向こうには花嫁行列が行く。

シーン145
麦畑
よく熟れた麦の穂末を、サヤサヤと渡る六月の微風ーー
大和は今、豊穣な麦の秋である。

「小津安二郎全集」下巻収録の「麦秋」シナリオ

小津は「国民映画」を作った

このラストシーンについて、小津研究で知られる田中眞澄氏は次のように解説している。

小津が『麦と兵隊』の徐州会戦にも参戦したことを考えるならば、この麦畑は無数の戦死者の霊に充ちている。
無数の輪廻がある。
彼らの死が新たな誕生と無縁ではないという思い。
『麦秋』のラスト・シーンは戦死者へのレクイエムであり、「大和は国のまほろば」を踏まえたとき、小津はここで「国民映画」を作り得たように思う。

田中眞澄編「小津安二郎戦後語録集成」の田中氏による「註」
麦畑を花嫁行列がいく。死と生の輪廻

田中氏の言う「大和は国のまほろば」は、この映画に出てくるセリフ。
(「まほろば」は、優れた良い所・国、素晴らしく、住みやすい場所‥‥といった意味の古語)

映画の中で、大和から鎌倉の紀子の家に来ていた紀子の叔父・茂吉(高堂国典)と、紀子の父・周吉(菅井一郎)、母・志げ(東山千栄子)の会話に出てくる。

シーン45
部屋
茂吉「ーー一度、大和へもこんかな」
周吉「ええ、行きますよ。これで紀子でも片づいたら‥‥」
茂吉「ウム? ウーム、来た方がええ。お志げさんもな。大和はええぞ。まほろばじゃ。ーーいつまでも若いもんの邪魔しとることない‥‥」

「小津安二郎全集」下巻収録の「麦秋」シナリオ

麦畑は戦死者の霊に充ちている

田中氏はここで「この麦畑は無数の戦死者の霊に充ちている」と述べている。
これに新たな視点で解釈を加えたのが平山周吉氏の論考だ。
平山氏の著書「小津安二郎」(大佛おさらぎ次郎賞受賞)から引用する。

小津は戦地にあって、火野の『麦と兵隊』『土と兵隊』をリアルタイムで読んだが、作品の評点は辛かった。
にもかかわらず、このシーン
(ニコライ堂が見える喫茶店で謙吉と紀子が会話するシーン)でわざわざ『麦と兵隊』に言及させているのは、大和の「麦秋」のラストシーンに持っていくための伏線だとしても、火野の「兵隊物」について、小津はいつのまにか評価を変えたとしか思えない。

そこで平山氏が着目しているのは、小津と、小津がその実力を高く評価していた映画監督、山中やまなか貞雄さだお(1909〜1938)の関係だ。

個性が光る監督たちが優れた日本映画を作った

山中貞雄は28歳で戦病死した

山中貞雄もまた、日本映画史の教科書に欠くことのできない人。
山中がいかに突出した才能を持っていたかは、現在視聴できる彼の監督作品

  • 「丹下左膳余話 百万両の壺」(1935〈昭和10〉年)

  • 河内山こうちやま宗俊そうしゅん(1936〈昭和11〉年)=16歳だった原節子が出演

  • 「人情紙風船」(1937〈昭和12〉年)

を見れば分かる。

山中は「人情紙風船」が公開された年に中国へ召集され、翌年(1938〈昭和13〉年)9月に戦病死した。28歳の若さだった。

小津はその年の1月、南京郊外で山中と会っており、死亡の知らせを聞いて、数日間無言だったという。

小津が覗くカメラの傍にいつも山中がいた

山中は原節子に思いを寄せていた、と言われる。
平山氏は、同書の中で「麦秋」では、小津映画では珍しく移動撮影が多用されていることに着目し、こう指摘している。

「麦畑」のキャメラ移動は、山中貞雄という死者を介在させると、おぼろげながら小津の意図が見えてくる。
移動するキャメラは山中の視線をも含んでいたのではないか。
特に亡き山中が原節子を見つめ、大事に見守る視線があったのではないか。

平山周吉著「小津安二郎」〜第三章「麦秋」の不可思議なキャメラ移動

平山氏は同書のあとがきで、こうも述べている。

(文芸誌「新潮」で)連載を始めて気づいたのだが、小津は支那事変に従軍したために、明治生まれにもかかわらず「戦中派」に属していたということだった。
(中略)
「最長老の戦中派」の戦友たちとは、まず部隊で生死を共にした仲間であり、相前後して召集され、二十八歳で戦病死した山中貞雄監督であった。
戦後になって小津が覗くキャメラの傍らには、いつも山中がいるという確信は書いていくうちに深まっていった。
死者と生者との「聖なる三角関係」が、そこには生まれたのではないだろうか。

この解釈を踏まえるなら、「麦秋」のラストシーンは、小津の山中に対する鎮魂でもあった。

レッテルはかなしからずや

葦平と小津をつないだ「麦」。
今回、葦平と小津のさらなる接点をさがしたが、残念ながらこれ以上見つけることはできなかった。

そこで次なる疑問として浮かぶのが、葦平は果たして、自作「麦と兵隊」が出てくる映画「麦秋」を見たのだろうか、ということ。
見ていたとすれば、どう感じたのだろうか。
葦平は自作が映画化されると、よくカメオ出演する人だったので、映画への関心はあったはず。
小津の存在も当然認識はしていただろう。

葦平の戦争。
それを伝えるものが、葦平のふるさと、北九州・若松にある。
葦平の文学碑だ。
そこには葦平の詩が刻まれている。

泥によごれし背嚢はいのう
さす一輪の菊の香や

(「背嚢」は軍人らが物を入れて背に負う方形のかばん)
火野葦平の文学碑。若松のシンボル的な山・高塔山(たかとうやま)にある
文学碑の裏側に刻まれた葦平の詩。(見えづらいが)「泥によごれし背嚢に さす一輪の菊の香や」とある

この詩は4行詩のはじめの2行で、この後

異国の道をゆく兵の
眼にしむ空の青の色

と続くという。


葦平は「麦と兵隊」などによって「兵隊ものの作家」というレッテルを貼られた。
彼は1940(昭和15)年、色紙に「レッテルはかなしからずや」と書いている。

葦平と小津にとって、戦争はずっと終わらなかった。

兵隊たちは背嚢をかるい(背負い)進んだ

メモ1:福岡を訪れた小津安二郎

小津は1956(昭和31)年3月11日から20日にかけて、里見弴(作家)、野田高梧(脚本家)、笠智衆(俳優)らと九州旅行に出かけ、福岡も訪れている。
大丸別荘(福岡県筑紫野市)や津屋崎の森別荘に泊まったり(3月11・12日)、宮地嶽神社(現在の福岡県福津市)へ行ったり(3月13日)した。
(北九州にも来てほしかったところ)

メモ2:いま「麦と兵隊」「麦秋」などに触れるには

(これを書いている時点で)葦平の「麦と兵隊」は北九州市立文学館文庫などで読める。小津の「麦秋」、葦平作品を映画化した「土と兵隊」、さらには山中貞雄監督の3作品(「丹下左膳余話 百万両の壺」▽「河内山宗俊」▽「人情紙風船」)はアマゾンプライムなどで視聴できる。

(火野葦平はこちらの記事でも取り上げています)


(原節子はこちらの記事でも取り上げています)



主な参考文献

「小津安二郎」(平山周吉著)
「全日記小津安二郎」(田中眞澄編纂)
「小津安二郎戦後語録集成」(田中眞澄編)
「小津安二郎全集」下巻(井上和男著)
「小津安二郎 新発見」(松竹編)
「小津安二郎映畫讀本 [東京]そして[家族]小津安二郎生誕90周年フェア公式プログラム」(松竹映像渉外室)
「葦平曼陀羅ー河伯洞余滴ー」(玉井家私版)
「没後60年 火野葦平展 レッテルはかなしからずや」(北九州市立文学館 第28回特別企画展パンフレット)
「北九州の文学」(北九州市立文学館10周年記念誌)
















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前田 岳郁
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