北九州キネマ紀行【若松編】宇宙大怪獣ドゴラが〝東洋一の吊り橋〟を破壊する〜若松出身の俳優・天本英世を見逃すな|そして葦平が見た東宝特撮映画
(掲載のイラストはイメージです)
橋の完成2年後に〝襲われる〟
若松(福岡県北九州市若松区)のシンボルの一つは、若戸大橋。
若松と戸畑を結ぶ巨大な赤い橋で、開通したのは1962(昭和37)年。
当時は〝東洋一の吊り橋〟と言われた。
その若戸大橋が、石炭を食べる宇宙大怪獣に襲われ、徹底的に破壊されてしまう‥‥。
それが(橋の完成2年後の)1964(昭和39)年公開の東宝映画「宇宙大怪獣ドゴラ」(監督・本多猪四郎、特技監督・円谷英二、音楽・伊福部昭)。
若松と石炭、天本英世と火野葦平
若戸大橋がドゴラの標的になったのは、若松が日本一の石炭の積み出し港だったから。
この映画には若松出身の異色俳優、天本英世氏(1926〜2003、以下敬称略)が出演している。
(予告編では、何度かちらりと見える白スーツの人)
天本も石炭とは〝接点〟のある人だった。
そして若松と石炭と言えば、若松出身の芥川賞作家、火野葦平(1906〜1960、以下葦平)。
葦平は、石炭荷役を担う「玉井組」の人だった。
天本と葦平は親交があったという。
ドゴラがダイヤや石炭を食べる
「宇宙大怪獣ドゴラ」は、こんなストーリー。
宇宙を漂流する細胞生物が、放射能の影響で突然変異して、怪獣ドゴラに。
ドゴラは炭素がエネルギー源で、地球に襲来。
世界各地で、炭素物質のダイヤモンドや石炭を吸い上げ、食べてしまう。
一方、日本では国際的なダイヤ強盗団による盗難事件が発生。
ドゴラは若戸大橋の上空にも現れ、近くに積まれた石炭を吸い上げ、若戸大橋をメチャクチャに破壊する。
そして、ドゴラは強盗団の上空にも‥‥。
新しい造形のSF怪獣
ドゴラは巨大なクラゲのような、半透明の発光体。
それまでの人が着ぐるみに入る怪獣と違い、新怪獣(SF的な宇宙怪獣)造形への意欲が感じられた。
ただ、実際のドゴラの映像とポスターやスチールなどのビジュアルは、かなり違う。
わたしは子供の頃、この映画を見て、「(ドゴラが)ポスターや写真と違うやんか〜」とがっかりしたのを覚えている。
とはいえ、大人になってからその映像を見直すと、CGなどない中にあって、評価ポイントは高い。
操演用のモデルを水槽に入れて撮影したり、ドゴラの触手をアニメ合成したりするなどしていて、特技監督・円谷英二らスタッフの努力・工夫の跡が十分に見て取れる。
若松は日本一の石炭の積み出し港だった
若戸大橋は、全国的に見ればローカルな橋の一つ。
しかし、この橋が東宝特撮映画のクライマックスシーンの舞台になった。
これは北九州の映画史にとってエポックメーキングなこと。
若松は明治から昭和にかけて、日本一の石炭の積み出し港としてとても栄えた。
若松の港は筑豊地方から運ばれた石炭が山積みにされ、ドゴラが襲うにはまさに格好のポイント。
映画が公開されたのは、日本のエネルギー政策が石炭から石油にシフトする頃だったとはいえ、多くの人にとって、まだ若松は石炭のイメージが強かった。
天本英世は若松中→東大法学部→中退→俳優に
「宇宙大怪獣ドゴラ」には、若松出身の天本英世がダイヤ強盗団のメンバーとして出演している。
(セリフは少ないが、笑えるシーンもある)
天本は1926(昭和元)年生まれ(1926年は戸籍上の生年。正確には1925年)。
旧制若松中学(現在の若松高校)から旧制七高造士館(現在の鹿児島大学)に進み、戦後は復員して東大法学部に入学した。
そして、大学を中退して俳優になった。
天本の自伝的な著書「日本人への遺書」を読むと、天本は権力に阿ることを嫌い、精神的にとても自由だった人のように思える。
スペインを愛した人としても知られ、2003(平成15)年に77歳で亡くなった。
特撮作品に数多く出演した
天本は映画「二十四の瞳」(1954年、木下恵介監督)などへの出演でも知られる。
ただ、わたし的には「キングコングの逆襲」(1967年)の天才科学者ドクター・フーの役などをはじめとする特撮作品への出演が印象深い。
(わたしより後の世代の人なら「仮面ライダー」の死神博士役かも)
わたしの記憶に残る、天本出演作品のいくつかを挙げさせていただくと‥‥(「宇宙大怪獣ドゴラ」を除く)。
映画
「妖星ゴラス」=1962(昭和37)年
「マタンゴ」=1963(昭和38)年
「海底軍艦」=1963(昭和38)年
「三大怪獣 地球最大の決戦」=1964(昭和39)年
「キングコングの逆襲」=1967(昭和42)年
テレビ
「ウルトラQ」第28話「あけてくれ!」=1967(昭和42)年12月14日放送
などなど。
父親は石炭大企業の幹部だった
天本と石炭の〝接点〟とは、天本の父親が住友石炭鉱業の若松支所長だったこと(のちに九州支社長)。
当時は石炭の全盛時代。つまり超大企業の地元幹部だった。
天本は「日本人への遺書」で、東大入学後のエピソードとして、次のように書いている。
「俺も俳優になりたかった」
ところが、天本は大学を辞めて俳優を志す。
普通なら父親は反対しそうなものだが、違っていた。
葦平の後ろ姿をよく見かけた
そんな経験をした天本は、子供の頃の若松の記憶について、次のように書いている。
葦平が小説「糞尿譚」で芥川賞をとるのは、葦平が32歳だった1938(昭和13)年のこと(受賞時は中国に出征中)。
それから「麦と兵隊」などを著して国民的な作家になり、1939(昭和14)年にいったん帰還。
そして1942(昭和17)年、今度は報道班員としてフィリピンに渡った。
天本が、葦平一時帰国の間に姿を見かけたとすれば、天本は13歳〜16歳ぐらい。
「宇宙大戦争」を見ていた葦平
葦平は自ら薬を飲み、1960(昭和35)年1月24日に亡くなった。53歳だった。
なので、その4年後に公開された「宇宙大怪獣ドゴラ」は見ていない。
葦平は亡くなる前、「遺書(ヘルスメモ)」を書いた。
ヘルスメモには日記のようなものも書かれ、自死する20日ほど前、昭和35年1月1日は次のような記述がある。
上映館は「若松クラブ」
「宇宙大戦争」は東宝が1959(昭和34)年12月26日に公開したお正月映画(監督・本多猪四郎、特技監督・円谷英二、音楽・伊福部昭、出演・池部良、土屋嘉男ら)。
葦平は映画の公開直後、しかも元日の1月1日に見ている。
(若松クラブは今の若松区中川町にあった映画館)。
葦平がいう「トリック」とは、特撮撮影のこと。
今見ると、のちのスター・ウォーズの原型のような映画。
この作品もまた、「宇宙大怪獣ドゴラ」と同様、特殊撮影スタッフは健闘している。
葦平がこの映画を見ていたのかと思うと、何だかうれしい。
葦平が存命ならドゴラを見たかも
葦平の父、玉井金五郎=1950(昭和25)年に70歳で死去=は、石炭を港から海上の船に積み込む「玉井組」を興した人。
葦平は、その波乱に富んだドラマを小説「花と龍」に書いた。
葦平も若い頃に玉井組を継ぎ、石炭と深く関わった。
(「花と龍」の関連エピソードを、こちらの記事で紹介しています)
天本は、葦平と親交を持った、と書いている。
どのような親交だったのだろう。
天本の父親の仕事や映画の話もしたのだろうか‥‥。
葦平が存命だったら、「宇宙大怪獣ドゴラ」も見ていたに違いない。
〈おまけ〉「ドゴラ」もう一つの見どころ:高塔山ロープウェーと藤山陽子
若戸博で高塔山公園に「子供の国」
「宇宙大怪獣ドゴラ」には、今はない高塔山ロープウェーが映っており、映像としての資料的価値も高い。
高塔山は高さ120メートルほどで、若松の象徴的な山。
葦平の文学碑があるほか、展望台からは若戸大橋がよく見える。
高塔山ロープウェーは1958(昭和33)年、ふもとの佐藤公園と高塔山山頂を結んで開通(全長317メートル)。
1962(昭和37)年、若戸大橋の開通を祝して、地元では若戸博覧会(若戸博)が開かれた。
この時、高塔山公園には、〝東洋一の高さ〟を誇る観覧車などを備えた「子供の国」が開設され、このロープウェーは多くの家族連れなどを運んだ(1970〈昭和45〉年に運休)。
「ドゴラ」では、高所からドゴラを観測するため、対策にあたる博士役の中村伸郎と秘書役の藤山陽子がロープウェーに乗車し、山頂に向かう。
藤山陽子は「社長漫遊記」にも出演
なお、藤山陽子(2022年に死去)は、若松とは縁のある女優。
森繁久彌扮する社長が、若戸大橋の開通に伴って若松へやってくる喜劇映画「社長漫遊記」(1963〈昭和38〉年)で、若戸博のイベント・ミス若戸博役で出演している。
(映画「社長漫遊記」はこちらの記事で紹介しています)
北九州キネマ紀行【若松編】宇宙大怪獣ドゴラが〝東洋一の吊り橋〟を破壊する〜若松出身の俳優・天本英世を見逃すな|そして葦平が見た東宝特撮映画
そのほかの主な参考文献
「本多猪四郎全仕事」
「写真集 特技監督 円谷英二」
「日本特撮・幻想映画全集」
「北九州の文学 北九州市立文学館10周年記念誌」
「火野葦平文学散歩案内」(火野葦平資料の会)
「若松100年 地図に描かれた風景」(旧古河鉱業若松ビル100周年記念事業実行委員会)