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北九州キネマ紀行【若松編】宇宙大怪獣ドゴラが〝東洋一の吊り橋〟を破壊する〜若松出身の俳優・天本英世を見逃すな|そして葦平が見た東宝特撮映画 

(掲載のイラストはイメージです)

橋の完成2年後に〝襲われる〟

若松(福岡県北九州市若松区)のシンボルの一つは、若戸大橋。
若松と戸畑を結ぶ巨大な赤い橋で、開通したのは1962(昭和37)年。
当時は〝東洋一の吊り橋〟と言われた。

洞海湾にかかる若戸大橋。2022年に国の重要文化財に指定された。映画では宇宙から襲来したドゴラに破壊される

その若戸大橋が、石炭を食べる宇宙大怪獣に襲われ、徹底的に破壊されてしまう‥‥。
それが(橋の完成2年後の)1964(昭和39)年公開の東宝映画「宇宙大怪獣ドゴラ」(監督・本多猪四郎、特技監督・円谷英二、音楽・伊福部昭)。

若松と石炭、天本英世と火野葦平

若戸大橋がドゴラの標的になったのは、若松が日本一の石炭の積み出し港だったから。

この映画には若松出身の異色俳優、天本あまもと英世ひでよ氏(1926〜2003、以下敬称略)が出演している。
(予告編では、何度かちらりと見える白スーツの人)
天本も石炭とは〝接点〟のある人だった。

そして若松と石炭と言えば、若松出身の芥川賞作家、火野ひの葦平あしへい(1906〜1960、以下葦平)。
葦平は、石炭荷役を担う「玉井組」の人だった。
天本と葦平は親交があったという。

玉井組の事務所があったことを示す北九州市教育委員会の掲示板

ドゴラがダイヤや石炭を食べる

「宇宙大怪獣ドゴラ」は、こんなストーリー。
宇宙を漂流する細胞生物が、放射能の影響で突然変異して、怪獣ドゴラに。
ドゴラは炭素がエネルギー源で、地球に襲来。
世界各地で、炭素物質のダイヤモンドや石炭を吸い上げ、食べてしまう。

一方、日本では国際的なダイヤ強盗団による盗難事件が発生。
ドゴラは若戸大橋の上空にも現れ、近くに積まれた石炭を吸い上げ、若戸大橋をメチャクチャに破壊する。
そして、ドゴラは強盗団の上空にも‥‥。

若松のまちも襲われる

新しい造形のSF怪獣

ドゴラは巨大なクラゲのような、半透明の発光体。
それまでの人が着ぐるみに入る怪獣と違い、新怪獣(SF的な宇宙怪獣)造形への意欲が感じられた。

ただ、実際のドゴラの映像とポスターやスチールなどのビジュアルは、かなり違う。
わたしは子供の頃、この映画を見て、「(ドゴラが)ポスターや写真と違うやんか〜」とがっかりしたのを覚えている。

とはいえ、大人になってからその映像を見直すと、CGなどない中にあって、評価ポイントは高い。

操演用のモデルを水槽に入れて撮影したり、ドゴラの触手をアニメ合成したりするなどしていて、特技監督・円谷英二らスタッフの努力・工夫の跡が十分に見て取れる。

若松は日本一の石炭の積み出し港だった

若戸大橋は、全国的に見ればローカルな橋の一つ。
しかし、この橋が東宝特撮映画のクライマックスシーンの舞台になった。
これは北九州の映画史にとってエポックメーキングなこと。

若松は明治から昭和にかけて、日本一の石炭の積み出し港としてとても栄えた。
若松の港は筑豊地方から運ばれた石炭が山積みにされ、ドゴラが襲うにはまさに格好のポイント。
映画が公開されたのは、日本のエネルギー政策が石炭から石油にシフトする頃だったとはいえ、多くの人にとって、まだ若松は石炭のイメージが強かった。

石炭を運んだ沖仲仕たちは「ごんぞう」(ごんぞ)と呼ばれた。彼らの詰め所だった旧ごんぞう小屋。今は整備され中を見学できる


天本英世は若松中→東大法学部→中退→俳優に

「宇宙大怪獣ドゴラ」には、若松出身の天本英世がダイヤ強盗団のメンバーとして出演している。
(セリフは少ないが、笑えるシーンもある)

天本は1926(昭和元)年生まれ(1926年は戸籍上の生年。正確には1925年)。
旧制若松中学(現在の若松高校)から旧制七高造士館(現在の鹿児島大学)に進み、戦後は復員して東大法学部に入学した。
そして、大学を中退して俳優になった。

天本の自伝的な著書「日本人への遺書メメント」を読むと、天本は権力におもねることを嫌い、精神的にとても自由だった人のように思える。

スペインを愛した人としても知られ、2003(平成15)年に77歳で亡くなった。

特撮作品に数多く出演した

天本は映画「二十四の瞳」(1954年、木下恵介監督)などへの出演でも知られる。
ただ、わたし的には「キングコングの逆襲」(1967年)の天才科学者ドクター・フーの役などをはじめとする特撮作品への出演が印象深い。
(わたしより後の世代の人なら「仮面ライダー」の死神博士役かも)

わたしの記憶に残る、天本出演作品のいくつかを挙げさせていただくと‥‥(「宇宙大怪獣ドゴラ」を除く)。

映画
「妖星ゴラス」=1962(昭和37)年
「マタンゴ」=1963(昭和38)年
「海底軍艦」=1963(昭和38)年
「三大怪獣 地球最大の決戦」=1964(昭和39)年
「キングコングの逆襲」=1967(昭和42)年
テレビ
「ウルトラQ」第28話「あけてくれ!」=1967(昭和42)年12月14日放送

などなど。

父親は石炭大企業の幹部だった

天本と石炭の〝接点〟とは、天本の父親が住友石炭鉱業の若松支所長だったこと(のちに九州支社長)。
当時は石炭の全盛時代。つまり超大企業の地元幹部だった。
天本は「日本人への遺書」で、東大入学後のエピソードとして、次のように書いている。

父の部下には東大を出た人間がゴロゴロいた。
(中略)
東大法学部を出た部下たちが、
「天本さんの坊ちゃんは、もう東大法学部に入ったから、これからは法律の話ばっかりするようになりますよ」
とか、
「坊ちゃんが大学を卒業したら、住友石炭にお入りになってもらったらいいんじゃないですか」
などといわれていたようだ。

「日本人への遺言」

「俺も俳優になりたかった」

ところが、天本は大学を辞めて俳優を志す。
普通なら父親は反対しそうなものだが、違っていた。

(天本が父親に大学には行っておらず、俳優業を始めたいと言うと)
しかし、今度は、私がびっくりする番だった。
「いいじゃないか」
父はこういったのである。そして
「実は俺も、若い時は俳優になりたかったんだよ」
と、いったのだ。私は、本当に驚いてしまった。

「日本人への遺書」

葦平の後ろ姿をよく見かけた

そんな経験をした天本は、子供の頃の若松の記憶について、次のように書いている。

子供の頃の私は、火野葦平氏の後ろ姿をよく見かけたものだ。
住友社宅の入口に、後年親交をもつことになる作家の火野葦平氏の家があったのである。

「日本人への遺書」

葦平が小説「糞尿ふんにょうたん」で芥川賞をとるのは、葦平が32歳だった1938(昭和13)年のこと(受賞時は中国に出征中)。
それから「麦と兵隊」などを著して国民的な作家になり、1939(昭和14)年にいったん帰還。
そして1942(昭和17)年、今度は報道班員としてフィリピンに渡った。
天本が、葦平一時帰国の間に姿を見かけたとすれば、天本は13歳〜16歳ぐらい。

葦平と天本のふるさと・若松。左のレトロな建物は古河鉱業が1919(大正8)年に石炭事業展開のため建てたオフィスビル。中央の赤い橋が若戸大橋。右手に見えるのは洞海湾

「宇宙大戦争」を見ていた葦平

葦平は自ら薬を飲み、1960(昭和35)年1月24日に亡くなった。53歳だった。
なので、その4年後に公開された「宇宙大怪獣ドゴラ」は見ていない。

葦平は亡くなる前、「遺書(ヘルスメモ)」を書いた。
ヘルスメモには日記のようなものも書かれ、自死する20日ほど前、昭和35年1月1日は次のような記述がある。

一月一日。爽快。
子供たちに年玉をやって一杯飲み、若松クラブに「宇宙大戦争」を見に行く。
そのトリックの巧妙さにおどろく。
かへりに「だるま」「川太郎」による。

(「葦平曼陀羅ー河伯洞余滴」に収録の「遺書(ヘルスメモ)」)

上映館は「若松クラブ」

「宇宙大戦争」は東宝が1959(昭和34)年12月26日に公開したお正月映画(監督・本多猪四郎、特技監督・円谷英二、音楽・伊福部昭、出演・池部良、土屋嘉男ら)。

葦平は映画の公開直後、しかも元日の1月1日に見ている。
(若松クラブは今の若松区中川町にあった映画館)。

葦平がいう「トリック」とは、特撮撮影のこと。
今見ると、のちのスター・ウォーズの原型のような映画。
この作品もまた、「宇宙大怪獣ドゴラ」と同様、特殊撮影スタッフは健闘している。
葦平がこの映画を見ていたのかと思うと、何だかうれしい。

葦平が存命ならドゴラを見たかも

葦平の父、玉井金五郎=1950(昭和25)年に70歳で死去=は、石炭を港から海上の船に積み込む「玉井組」を興した人。
葦平は、その波乱に富んだドラマを小説「花と龍」に書いた。
葦平も若い頃に玉井組を継ぎ、石炭と深く関わった。

(「花と龍」の関連エピソードを、こちらの記事で紹介しています)

天本は、葦平と親交を持った、と書いている。
どのような親交だったのだろう。
天本の父親の仕事や映画の話もしたのだろうか‥‥。
葦平が存命だったら、「宇宙大怪獣ドゴラ」も見ていたに違いない。

〈おまけ〉「ドゴラ」もう一つの見どころ:高塔山ロープウェーと藤山陽子

若戸博で高塔山公園に「子供の国」
「宇宙大怪獣ドゴラ」には、今はない高塔たかとうやまロープウェーが映っており、映像としての資料的価値も高い。
高塔山は高さ120メートルほどで、若松の象徴的な山。
葦平の文学碑があるほか、展望台からは若戸大橋がよく見える。

高塔山の展望台から見た若戸大橋。対岸は北九州市戸畑区
高塔山にある葦平の文学碑


高塔山ロープウェーは1958(昭和33)年、ふもとの佐藤公園と高塔山山頂を結んで開通(全長317メートル)。

1962(昭和37)年、若戸大橋の開通を祝して、地元では若戸博覧会(若戸博)が開かれた。
この時、高塔山公園には、〝東洋一の高さ〟を誇る観覧車などを備えた「子供の国」が開設され、このロープウェーは多くの家族連れなどを運んだ(1970〈昭和45〉年に運休)。

「ドゴラ」では、高所からドゴラを観測するため、対策にあたる博士役の中村伸郎と秘書役の藤山陽子がロープウェーに乗車し、山頂に向かう。

藤山陽子は「社長漫遊記」にも出演
なお、藤山陽子(2022年に死去)は、若松とは縁のある女優。
森繁久彌扮する社長が、若戸大橋の開通に伴って若松へやってくる喜劇映画「社長漫遊記」(1963〈昭和38〉年)で、若戸博のイベント・ミス若戸博役で出演している。

(映画「社長漫遊記」はこちらの記事で紹介しています)

北九州キネマ紀行【若松編】宇宙大怪獣ドゴラが〝東洋一の吊り橋〟を破壊する〜若松出身の俳優・天本英世を見逃すな|そして葦平が見た東宝特撮映画 

そのほかの主な参考文献
「本多猪四郎全仕事」
「写真集 特技監督 円谷英二」
「日本特撮・幻想映画全集」
「北九州の文学 北九州市立文学館10周年記念誌」
「火野葦平文学散歩案内」(火野葦平資料の会)
「若松100年 地図に描かれた風景」(旧古河鉱業若松ビル100周年記念事業実行委員会)


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前田 岳郁
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