たった1つの原子を判別する技術、原子の姿を見る技術:思惟かねの気まぐれニュース解説
私たちの世界を形作る、最小構成単位の一つ。それが原子です。
ドルトンが近代的な原子論を提唱した19世紀から、化学反応の担い手そのものである原子それ自体を直接観測することは科学の一つの目標でもありました。
既に私たちの科学技術は、電子顕微鏡による0.1nmの解像度(およそ原子1個の大きさ)で原子配列の像を得ることができるところまで進んでいます。しかし、この中のある1個の原子が何の原子であるか?を識別することは今の所不可能です(元素分析にはXPSなどの手法がありますが、原子1個を分析できるような手法では有りません)。
出典:https://www.nanonet.go.jp/pages/about_nanotech/primer/nano09.html
今回とりあげるニュースは、なんと直接ある1個の原子が何か?ということを判別する技術についての研究になります。
というわけで本日のニュースはこちら。
(ヘッダー画像は上記ニュースの添付資料より)
今回は「AFM(原子間力顕微鏡)」と「短距離力(化学結合力)」のふたつをキーワードに、原子の姿と性質を捉える技術の最先端について解説していこうかと思います。
◆まずはニュースの概要から
ではまず今回のニュースを3行…は無理にしても、2ツイートで説明してみましょう。
…はい、お分かり頂けたでしょうか。多分分からないと思います。私も最初はよく分かりませんでした。
ポイントをかいつまんで話すと、
・AFM(原子間力顕微鏡)と同じ原理により、
・測定したい原子Aと、(既知の)2種類の原子B/Cつの化学結合エネルギーを力として測定し、
・ポーリング(Pauling)の理論値と比較することで原子の種類を特定する
というところです。
では順を追って、もう少し詳しい原理について解説していきましょう。
◆AFM(原子間力顕微鏡)の原理について
さて、今回のニュースを理解する上で欠かせないのがAFM(Atomic Force Microscorpe:原子間力顕微鏡)という、あまり聞き慣れない顕微鏡についての知識です。まずはこのAFMの原理を説明するところから始めましょう。
顕微鏡と聞いて一番に思い浮かぶ、私たちが小学校の理科で使うような顕微鏡は光学顕微鏡といいます。これは人の目に見える光(可視光:波長380-750nm)を利用して対象を観察します。もう少し詳しく言えば、ライトから対象に当たった光がレンズを通して私たちの目に跳ね返ることで、観察物が「見える」わけですね。
電子顕微鏡はこの発展版と言えます。電子顕微鏡では、可視光の代わりに遥かに波長の短い電子線使っています。波長で言うと可視光の1/1000以下です。当然人の目には見えないので、検出器(カメラ)を使って人の目に見える形に加工します。わざわざこんなことをする理由は、顕微鏡の分解能(どこまで細かく見えるか)は観測に使う波長に依存するためです。最新の電子顕微鏡では1MVという高エネルギーの、非常に波長の短い電子線を使うことで、なんと0.1nmという原子レベルの分解能が得られるのです。
さて、話を本題のAFMに戻しましょう。ここまでの顕微鏡は可視光や電子線という波を使っていましたが、AFMは一味違います。AFMは、なんと大胆にも非常に細い針で表面をなぞることで物体を観測します。この針(カンチレバー:下図④)で試料⑥のあちこちをなぞり、その間に針がどれだけ上下に動いたか(下図でいう距離d)を計測することで表面の形状を描き出すのです。言うなればAFMは、波の代わりに針(カンチレバー)を通して試料から伝わる力を観測することで形状を測定しているのです。Atomic "Force" Microsopeというのはそういうわけ。
ちなみにこの力は、実際はnm単位のカンチレバーの変位量として検出します。この微小な変位を検出するために、カンチレバーに鏡を取り付け、その変位を鏡の傾き=反射光の角度の変化として検出する「光てこ」と言われる構造を利用します。
うーん、かがくのちからってすげー。
AFMの模式図(wikipediaより)
…さて、上に説明したAFMは、実はコンタクト(接触)モードという最もシンプルなタイプのAFMです。現在最先端のAFMはより高度に進化しており、試料に針を直接触れさせることはありません。むしろ、いかに針が表面に触れないようにうまく制御するかがポイントになります。
あれ?それだと針が動かないから観測ができないんじゃ…と思ったあなた、良い所に気が付きました。ここがAFMの大きなポイントであり、今回のニュースを理解する上で最も大事な点です。
実は原子というのは、直接触れていなくても物に力を伝えることができるんです。
◆原子と原子に働くいろんな力
高校で化学を勉強した方だと、静電気力やファンデルワールス力(分子間力)というのを聞いたことがあるのではないでしょうか?これは原子や分子同士の間で、原子内の電気的な偏りを原因として働く力です。
そして御存知の通り、これらの力は直接触れていなくても伝わります。こすった下敷きで髪が逆だったり、磁石同士が引き合ったりするのをイメージすれば分かるでしょうか。
つまりこうした力が、触れていないはずのAFMの針を動かすのです。
もっとも、こうした力を私たちが普段意識することはありません。静電気力は距離の2乗に反比例し、ファンデルワールス力に至っては6乗で減衰していくので、我々のマクロな世界ではまず感じることは出来ません。
しかしnmの世界になると話は変わります。例えばAFMの針の先端と、試料の表面がわずか数nmにまで縮まると、こうした静電気力やファンデルワールス力などの力…長距離力が針と試料の間に強く働きはじめます。結果、針は表面に触れてもいないのに、むしろ試料に引っ張られる方向に動くことになるのです。
これを利用し、針に働く力が一定になるように(=試料表面からの距離が一定になるように)針を上下に動かしながら走査すれば、試料に触れることなく表面の形状が測定できるわけです。これをノンコンタクトモードといい、現在のAFMの主流の方式となっています。
言い換えるとAFMとは、こうした試料表面の原子と針先端の原子の間に働く力を測ることで計測を行う手法なのです。
さて、ここまで数nmの距離で強く働く長距離力を話題に上げてきましたが、「長距離力」があるからには…もちろん「短距離力」が存在します。
ここでようやく今回のニュースのもう一つのキーワードが登場しましたね。0.1nm単位という、原子の直径に近い距離で非常に強く働く短距離力、あるいは化学結合力。この力こそが、原子の種類を特定するのになくてはならない力なのです。
では、この化学結合力とは何か?を説明しながら、今回のニュースの本題、原子をどうやって特定するかについてお話していきましょう。
◆化学結合力と化学結合エネルギー:原子の正体を示すもの
さて、化学を勉強した方であれば共有結合という言葉をご存知ではないでしょうか? ある原子同士が電子を共有することで安定化して生じる共有結合は、例えば水、例えば酸素といった私たちの身の回りの分子の大半を形作る化学結合の一つです。この共有結合に加え、イオン結合や極性結合といった結合を含めた化学結合こそが、この世界を形作っているといっても過言では有りません。
この化学結合を作ろうとする力が、つまり化学結合力です。磁力や重力のような物理的な力ではなく、原子と原子が化合して化学的に安定な状態になろうとすることで生じる、いうなれば化学的な力です。そしてこの化学結合力(短距離力)は、前項まででお話してきた長距離力(物理的な力)よりも遥かに大いのです。これを表したのが下の図です。
原子間力顕微鏡を用いた化学結合理論の検証(2017) Fig.1より
この図は横軸に原子と原子の距離、縦軸に原子間に働く力の大きさを表した概念図です。
ここでいうNon-contact領域は、主に長距離力が働く領域です。一般的にAFMで使われている領域でもあり、分子間力(ファンデルワールス力)や静電気力といった電磁気的な力が支配的です。力の大きさは負であることから分かるように、原子間にはこうした力による引力が働くわけですね。
さて、これよりももっと原子間の距離が近いNear contact領域(原子間距離0.1nmのオーダー)になると、長距離力に代わり短距離力(化学結合力)が支配的に働くようになります。この結果、図に示されるように原子間に働く力は急激に大きくなります。この力は原子間の距離が更に縮まっていくと、やがてピークを迎え、そこから更に近く、原子と原子が直接ぶつかる距離(Contact領域)に入ることで斥力(反発し合う力)が急激に増大し、やがて引力を上回って原子同士は反発しあう…というのが、原子間距離と原子間力の関係です。
さて、今回のテーマである研究で未知の原子を特定した手法の鍵は、ずばりこのNear contact領域での化学結合力のピークにあります。実はこのピークは、2個の原子の種類によって特定の値を取ります。しかもこの値はポーリングの化学結合論によって理論的に予測が可能です。つまりこのピークを測定できれば、おおよそ相手がなんの原子であるかを絞り込むことができるのです。
実際は、未知の原子Aと既知の原子Bの1組の化学結合エネルギー(EA)の測定結果だけではAの正体を完全には特定できないので、さらにもう1組、別の既知の原子Cと原子Aの結合エネルギー(EB)について測定を行い、この2組の結果をプロットすることで未知の原子Aを特定する…というのがこの研究の骨子です。
(もう少し詳しく言うと、化学結合力の強さ=化学結合エネルギーの大きさであり、これは電気陰性度と深い関わりがあります。このため下図のように、ある原子のプロットは理論上一直線上に並ぶこととなり、ここから原子の種類の特定が可能になるわけです。詳細を知りたい方はこちらの論文をどうぞ)
東大など、試料採取プローブの先端に付着した1つの原子の元素識別に成功 - 日本経済新聞 添付試料より
そして、お気づきかとは思いますが、この肝心の化学結合力のピークを検出する方法というのは、ここまでに解説したAFMの原理そのものです。実際、最新のAFMではこの短距離力を利用して従来の長距離力を使ったAFMでは不可能だった原子の姿を直接捉えられるほどの解像度を実現しています(高分解能AFM観察に及ぼす短距離力の寄与(2004))。
上記論文 図4より:AFMで観察した原子配列(左)とそのモデル(右)
このように単純化すればたった1本の針がどれだけ引っ張られるのか?という情報だけから、原子の種類や原子配列までを捉えられるというのは、いやはや、科学というものの凄さを思い知りますね。
◆最後に
近代的な原子論が提唱されてから実に200年。当時は実在すら疑問視されていた原子の存在を、現在人類はその目で直接捉えられるまでになりました。それを実現しているのは電子顕微鏡、そして今回解説したAFMといった高度に洗練された観測技術です。
ここで私の好きな映画である「まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語」から一つのセリフを引用しましょう。
「観測さえできれば干渉できる。干渉できるなら、制御もできる」
まさにこれは科学の真髄であり、正確な観測なくして科学技術の発展はなしえません。2020年、ついにはたった1個の原子の種類までを特定できるほどに至った観測技術は、これまでも、これからも私たちの科学技術を下支えする、まさに縁の下の力持ちな技術と言えましょう。
と、いうわけで今回のニュースは解説ここまで。
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☆今回参考にさせていただいた論文
原子間力顕微鏡による原子の力学的識別・操作・組立(森田,2006)
原子間力顕微鏡による二酸化チタン表面の研究(小野田,2017)