歩幅から彼の匂いがする
彼氏と別れた。彼から別れを告げられた。小さな言い合いこそあれど、話し合いをして解決出来ていて順調な交際だと感じていた。もうすぐ付き合って4年ほどになるからとっくにセックスはなくなっていたのだが、2人ともそれほど性に重きを置くタイプではないと思っていたので、それを深刻に捉えてはいなかった。しかし、そこに少し齟齬があったらしい。5個上だが、まだ20代後半の彼は歳相応の性欲を持て余していたのだ。積もった日々の小さなイザコザとやり場のない性欲に逆撫でされた彼の心を撫で付けるヒトが現れたそうな。
仕方ないのだと思う。ドラマのように昂った感情を相手にぶつけて喚いたり、内側に閉じ込めて泣いたりするのかなと思っていたが、当事者になってみたら至って冷静で、いつか来る別れが来たのだ、ただそれだけだと思った。付き合ってからというもの、筋トレをサボりにサボり、髪は切ろうと思ってから二週間は放置するし、セットもせず、男性的な魅力を磨くのをサボってきた。スマホを伏せて置くようになったり、トイレにスマホを持ち込んで長居したり、妙に増えた友だちとの遊びに気が付きつつも何も手を打たなかった自分にも非はあるのだ。カップルというのは相方が第三者に取られてしまうという緊張感をある程度持っているべきなのかもしれない。
お互い記念日を大事にするタイプではなくて、付き合った日を覚えていなかったから彼の誕生日を付き合った日としていた。多分彼の誕生日の方が近かったからとかそんな理由だ。あと、2週間くらいで彼の誕生日で4年目に差し掛かる日だった。その日に渡そうと思って選んだコートはどうしようか。自分と彼は似た体型だし、気に入ったデザインだから使ってもいいのだが、そうしたくないのは最後の足掻きだ。とはいえ誕生日に渡しにいくのはどうしても負け犬のようで嫌だった。明日彼の家にある自分のものを取りに行くから、その時にしようと思った。
彼との出会いはよく行くゲイバーだった。客層は様々でありつつも短髪で鍛えた肉体を強調するファッションの人が幅を利かせる中、緩くパーマを当てた髪に中肉中背の彼はいわゆるモテスジというものを意識しているようには見えず、それがかえって好印象だった。
彼は自分軸をしっかり持っている人が好きな人だった。自分もそうだった。それが分かったのは「彼氏ができたらその人に影響されるタイプか?」という話題で盛り上がったことで、ことあるごとに彼と自分は同じ意見だった。少しドライでさっぱりした恋愛観が似ていた。
実際彼と付き合って自分も彼も何も変わらなかった。彼は電子タバコを吸っていたが、1、2度貰うことはあれど、自分がそれに流されることはなかったし、自分は髭が生えた人が好きで彼もそれを知っていたが、彼は似合わないんだよねと笑い、綺麗に剃っていた。
「今日は昼食べて15時くらいにそっちに着きます。」
「わかりました。」
いつも通りの温度感のLINEなのにやけに冷たく感じるのは、彼がもう自分のそばにいてくれないからだろうかと思いながら支度をする。
荷物を受け取りに行くだけなのに新品のコートが入った紙袋を持っているのは不自然だ。コートを無造作に紙袋からリュックサックに移した。シワが少し出来るくらいが丁度いいだろう。タグはまだ切っていない。
週末はよく彼の家で過ごした。彼のパジャマを借りて、ベッドに二人並んで映画をよく見た。「ホラー映画とキャラメル味のキス」という歌詞はキャラメルポップコーンを食べてからするキスのことだと知ったのは彼と付き合ってからだった。
服を共有していたから今日のメインはその分別だ。
「これって俺のやっけ?」
「いや、わかんないけどほしいならあげるよ。」
「この靴下穴開いとるやん」
「ほんとだ、ゴミ箱入れといてくれない?」
話していると普段と変わらないような気がして、本当に別れるのかと思う。
「あー、あのさ。」
コートをいれたリュックサックに手を伸ばす。
「ん?」
彼がいつも通りにこやかに聞き返す。いつも通り。にこやかに。
それがあまりにもいつも通りすぎて演技をしているように感じた。そうすることでシリアスな雰囲気を出させない、別れる二人の湿っぽい雰囲気にさせない、彼なりの防衛だと感じた。そう思ったらリュックサックは掴めなかった。
「……あー、ごめん何言うかド忘れしたわ。あはは。」
「なにそれw思い出したら教えて。」
リュックサックに手を伸ばしたことに気がついていながら言及しない彼。白々しくいつも通りを演じる僕らにはもう決定的な距離があるのだ。
「ちょっとトイレ行ってくる」
彼がいなくなったその隙にクローゼットにタグのついたコートを掛けた。その場ではバレないように、けれどいずれ気がつくように。
女々しい、未練がましいと思う。けれど、これは足掻きなのだ。惨めで、後から思い出して恥ずかしいものであるほど、足掻きらしい。彼の生活の中に自分の痕跡を残そうとする足掻きなのだ。彼が過去の男との物を捨てる人で、コートを見てすぐ捨てたとしてもそれも本望だ。物に罪はないと、そのまま使っていてもそれだって本望だ。
彼の家をあとにして一人で歩く自分は本当に一人だ。
初めから最後まで僕らは二人で一つではなく、自立した一人と一人であり続けた。それが心地よかった。恋人に影響されたりしない、そう思っていたのに、長く隣を歩いたせいで、歩幅から彼の匂いがした。自分はこんなにゆっくり歩く人じゃなかったのに。
疲れるじゃんとのんびり歩く人だった。急かす理由はないから合わせて歩くと違った世界が見えた。せかせか歩いてたときは意識しなかった葉擦れの音や塗装の剥げた標識や西日に伸ばされた長い影がよく見えた。彼の歩幅から見える景色が好きになっていた。
彼と会う前の自分の歩幅に戻そうと思ったが、もう戻せなかった。
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