日常#76
久しぶりにマンガを買った
おとなになったなぁ、というか自分でお金を稼ぐようになったんだなぁと初めて顕著に感じたのはマンガをシリーズまるごとまとめて思いつきに買ったときで、今回もそれをした
連載中のマンガを新刊を待ちながら追うのは苦手なので、基本的に完結したものしか買わない、チェンソーマンも最高に面白かったが、一期が終わってからのその後は待ち遠しさで辛くなってしまうのが目に見えているから買っていない
ワンピースとかヒロアカとか呪術廻戦とか読みたいから早く完結してほしい
「違国日記」という作品を買った
Kindle Unlimitedで3巻まで無料で公開してるときに読んで、これはマンガという媒体で読まなければいけないなと感じた
そして、大人買いしたことを友人に話したら感想をカツアゲされたのでこれを書いている
小説にしろ、マンガにしろ、アニメ、映画、写真、絵画、音楽にしろ創作というのは全てクリエイターの内面の表出という意味で通底するものがあると思っていて、クリエイターがどの表現方法を選択するかの違いしかないと思っている
自分はその創作がその表現方法でしかなし得ないものであるときにそれを名作だというと思っていて、その意味で「違国日記」はマンガという表現方法でなされるべき名作だなぁとおもった
だから小説の映像化だったり、そもそも映像化されることを前提としているであろう戯曲のような小説とかを読むとがっかりしてしまう
いい小説を読んだなぁという感覚にはならずになんだか、いいプロットを食べたなぁ、食べただけだなぁという感覚になってしまう
映像化不可能とかいう評価をされている本をみると読んでみたくなってしまう
「違国日記」を読んでいて気がついたことが、普段は自分はマンガを読むときにほとんど絵を見ていなかったということで、だいたいセリフと地の文しか見ていなかった
それが「違国日記」では文字情報だけでは見えてこない登場人物の心境をページの間のとり方や大胆にアップにした顔を背景にするなど、絵を見せる作りをしていて、読んでいて(あ、自分、きちんと絵を見せられている、逆にこれまでのマンガは絵を見ていなかったのではないか)と気がついた
それでいて、「違国日記」はとても言葉を大切にしている作品で、絵を見せるその間ゆえにその言葉もきちんと読ませる効果があってとても自分好みだった
それがマンガでしかできない表現であるような気がして、きっとこれは名作のような気がしている
映画化したらしいが、およそ二時間くらいの限られた時間でどうその間を表現するのか、そもそも表現し得るのか気になっている
ぼく自身も小説を書いたりする身ゆえに朝を引き取った叔母で作家の高代槙生の産みの苦しみはひしひしと身に染みた
そして、槙生が羨ましかった
物語をもっと必要とする人生でありたかった
自分もあんなふうに孤独に愛されたかった
自分は孤独の中で櫂を持って海を割る胆力を持っていない
何も書けない、何も書いてはいけないようなそんな苦しみのなかで書き進めるその強かさに眉間を撃ち抜かれるようだった
良い小説、漫画、音楽など創作に触れると自分も書きたくなる
そうして構想を練ったり、見切り発車に書きはじめたりして、そうするうちにその話の稚拙さに絶望して、絶望している自分の烏滸がましさに嫌気がさす
けれど、その中でも自分はやはり書かなくては自分ではないような気がして、筆を執り、キーを叩く
その先に満足出来ないものが出来上がったとしても、その苦しみに巻かれることを望んで
また書きます
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