日常#79
自分の家から彼氏が仕事に出かけていった。
それまで一緒にいた人を家から見送るというのは少々慣れない。扉一枚を挟んだだけで、それまで自分だけのためでなかった時間が、途端に自分だけのものになってしまう、その突然さに胸を突き押されるようで。そのまま何かをしなくては行けないような焦燥感に押されて、しばらくゲームをしていたらスマホが鳴った。LINEの通知だった
東京に進学した高校の友だちとのグループLINEで、名古屋に住んでいる同級生が東京に来たので泊めていたんだけど、台風の影響でその子が帰れなくなって、もう一晩泊めなきゃならないが、俺は今夜用事があるから他に泊めてあげられる人はいないかという連絡だった
彼はいつかの日記で書いた、ストリップ劇場に連れて行ってくれて、自身の妾の子としての生い立ちを話してくれた、あの彼だった(いつかの日記、と過去のものに執着しないスタンスでスカして書いておきながら、自分の日記を遡って当該のものを記すのはすこし気恥ずかしいので)
およそ一年前に自分の家を訪れていたから、なんだか彼とはこの先も夏の暮れにしがみつく台風とともにに会うような気がしている
彼は前回うちに来たときに宿泊費として、谷崎の春琴抄をくれた
今回は時間がなくて、本屋に寄る時間がなかったことを悔やんでいた
僕は彼が来てくれるだけでうれしい
そして、宿泊費として本を選ぼうとしてくれたことや選んでくれていたときの時間が嬉しい。
他人の中で自分を思う時間が存在していること、その時間や自分を思ってくれる気持ちの結晶としてなにか贈り物がその手にあることが、とてもあたたかく思える
久しぶりに誰かからLINEだのDMだの、連絡が来るとその直前にその人の中で自分が存在していたことがなんだかとても不思議に思われる。他人の中で自分が生きていることをいちばんよく実感する。
そういえば今日、高校の同級生が誕生日を迎えていたはずだ。あとでお祝いのメッセージを送ろう、これが投稿されるのはいつなのかは分からないが、その日にもきっと誰かが誕生日を迎えているはずだ。それが僕のではなく、あなたの知り合い、友だちであっても、それはとても都合のいいことだ
一年ぶりに来た彼は去年と同じように、僕の部屋に着くやいなや本棚の前にあぐらをかいて「増えたねぇ」と言った。だれかの家に行ったときにその人の本棚がみたくなる気持ちはとてもよく分かる。ありきたりな表現だけど、本棚は本当にその人の内側が外側に出てきた形だと思う。ナイモンのプロフィール欄には本棚を載せる欄があっていいと思うし、就活であなたを表す一枚に本棚を載せてやろうか、とすら思う。自分のことを知ってもらうのが好きだから、本棚をぢっと見つめている彼のことが好ましくて、照れを隠すために「そうでやんすねぇ」と変な調子で返した。
「これ、○○(自分の名字)が書いたやつ?」と彼が聞いて、小説を書いてることをいつ教えたんだっけかな、と思いながら「そうだよ〜」と彼の方を見ずに答えて、「読んでいい?」と聞かれて、なんとなく「先シャワー浴びてきたら?」と先に延ばしたくなった。
彼はそれでも「今、読みたいな、」と言って、本を開いてそのまま、文字の隙間をよそよそと縫う魚になってしまったから、そして、それはもう、並縫いなんてもんじゃなくたいそうゆっくり、本返し縫いといった具合だったので、仕方なく自分が先にシャワーを浴びに行った。
ちょうど一年ほど前に書いたそれは、自分が初めて書いた小説で、分岐した世界線ではきっと有り得たであろう自分を書いたもので、だからそれは自分ではないんだけれど、自分ではないです、とは言いきれないもので、なんだかとても独白的な熱量を帯びたものになってしまって、それを読まれているのをそばで感じていると、きっと、長年連れ添った人に自慰を見られたときってこんな気持ちになるんだろうな、とおもった。
それだから、別にそんなこと気にする関係でもないのに、シャワーから出たあともすっかり服を着て、髪もちゃんと乾かして、外向きの顔をして彼に「出たよ」と言った。そうしたら彼はそれには答えず、本を見ながら「強かだね、強か」と言って、それからぼくの方を見て、よかったよ、と付け足してくれた。
今は川上未映子の「乳と卵」を読んでいるので、なんだか一文がとても長くなってしまう。あの本は本当に新しい文体で、あれが発表されたのはおよそ15年前だが、当時のビビッドな衝撃を、その色を損なうことなく未来にも与えるだろうと思う。
文体というものには本当に自覚的であられない。こないだ書いた小説を教授に読んでもらったとき、あなたはもう自分の文体を持っているからそれを突きつめてください、といわれたり、出版社に送るESを就活支援の人に読んでもらったとき、「なんだ、かオシャレな文体で、すね」と言われたり、僕としてはあなたの喋り方の方が風変わりですね、と思うのだが、なんてったって、自覚的になれないものを磨くだなんてむつかしいことだ、と思う
ただ、綺麗な比喩が書きたいな、描きたいな、比喩はほとんど文芸というよりも写真だとか、誰もが見たことのあるような夢の景色だとかに近いな、とかは、思う
「強かだね」と言ってくれた彼は、それから、シャワーを浴びに行って、出てきたあとも浴びながらあそこの描写が頭のなかでどうしても反芻されて、よく噛み直してたんだ、というようなことを話してくれた
最近、書いたものをインスタで読んでくれる人を募って、だいたい20人くらいに読んでもらった
なんだか、存外褒められてしまって、にっちもさっちもあっちもこっちもどっちにもいかない、いかれない気持ちになってしまった
まぁそりゃもちろん友人が書いたものをボロカスに叩くなんて、すべすべの心を持った僕の友人たちの中にある選択肢ではないんだろうけど、文藝の先生にもまぁなんていうか褒めっぽい言葉をもらってしまって、じゃあ自分はどうしてここから上にいけないのかよく分からなくて、じゃあもっと書けよということだけれど、なんだか自分が小説を書く意味、理由、責任が陽炎みたいにゆらゆらしていて、何も降りてこない
だから物書きをしている人の手助け、人と伴走がしたくて編集者、校閲者になりたいなんて消極的も消極的な理由で、それじゃあ、メディアという繋がりから広告業界に行きますか? えぇ、まぁ興味なくもないこともないこともなく、うっすら芽生えている興味よ、いなくならなくないでくれ、なんか、企業にとって耳障りの良さそうなことを頭から漉しとって話していたら、内定のようなものを頂いたのですが、それなら自分はもうここで就活をおわれるということなんでしょうか? 始めたつもりもなく始まっていて、ああ、あなたはもうここで降りられますよ、え、どうしようか、もう少し乗っ、ていようかなあ、ああ、なんだか、就活って歩きたくないのにそういうもんだから歩、く、よね……? まぁ? というエスカレーターの右側みたいだ
最寄り駅に着きます
さようなら
また書きます
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