日常#78
一日のうちに書ける活字の量には天井があって、それをセーブするためにしばらくnoteを書くのをやめていた。
一個前の日記は一ヶ月くらい前に書いて放置していたものだった。自分の中で文章にしたいと思う出来事の消費期限は一ヶ月ないくらいなので、一ヶ月ぶりに見た書きかけの原稿は大層味気なくパサパサに乾いていたので、興味を失って、とりあえず投稿をした。
とりあえず投稿をしたせいでいつも末尾につける「また書きます」も忘れてしまっていたみたいだ。
これからも多分のそのそと書き続けると思う。
日記ごときに産みの苦しみなどという大層なものはないが、それをずっと感じていたい。もしくは産みの苦しみを感じている人の側にいて、サポートをしたい。それが自分の就活というか人生の軸みたいなものだと最近気がついた。
普段noteを書くときはラフでいたいから読点をつけないのだけど、原稿を書いたあとだから読点をつける癖が残っているみたいだ。
活字の量をセーブしてたのは他に書かなくてはならないものがあったからで、それは12月の文学フリマに出す小説だった。脱稿したので日記を書いている。
書かなくては書かなくてはと思いながら、構想がまとまらなくて気がついたときにはあと、10日くらいだったので、急いで書きあげた。昔からやらなくてはいけないことがありつつも、あ〜〜〜やんなきゃなぁという背徳感の中でやる娯楽が好きで、ストリートファイター6のジュリの最大ダメージを伸ばすことに腐心していた。
だいすきなだいすきな、これさえあれば外に出ても汚いものではなく、美しいものを探そうとしていられるというような小説、作家さんの文章があって、原稿を書いている間、ずっとその人の文章を読んでいた。
この人の文章綺麗だな、この表現好きだな、この展開、構成美しいな、とそう思っているうちにこれを盗んだらこの喜びは自分のものになるだろうかと思ってしまっていた。
その人の文章をCtrl+Aを押して、青く囲われたそれをコピペして、Ctrl+Zを押すのを何回も繰り返していた。
幼い頃から母から「学ぶという言葉は真似ぶ、真似るから来ているんだよ」と教えられてきて、まずは上手な人の真似をしてみる、ということが染み付いていた。
スト6もそうだ。マゴさんのジュリの動画やモダンジュリでレジェンドに行ったkamikuraさんの動画をみて真似をしている。
スト6は完全に真似でいいのだが、創作はもちろんそうはいかない。
真似ぶとオマージュとパクりの違いが分からなくて、書き上がったそれを見て、ストーリーはとても好きなのだが、それはあの人の作品を愛する気持ちであって、自分自身の作品を愛する気持ちとは違ってしまっていた。貧しいものを書いてしまったような感覚がある。
調べてみると、音楽や文学において、敬愛する作品に影響を受けて、似た作品を創作すること。尊敬する想いをもって、アレンジを加えて書いたものが、オマージュと呼ばれ、他人の表現を流用して創作者の努力を踏みにじるのが、パクりであるらしい。
なんだか、アレンジを加えはするのだが、好きという気持ちがあればそれが許されると言われているようで、傲慢なことをしている感覚になった。その論の暴力的な部分とともに好きという気持ち、言葉の暴力さにも気がつく。
最近はずっと芥川賞をとった作品やその作家さんの別の作品を読んでいるのだが、大体が20代後半くらいで、どこかの新人賞をとってデビューしていることが多い。
『おいしいごはんが食べられますように』の高瀬隼子さんは大学2年生のときから寄稿し始めて、31歳のときに『犬のかたちをしているもの』で文学賞をとって、34歳で芥川賞を受賞をしていて、書き続けるその胆力に呆然とした。青いりんごを齧ったような酸っぱい気持ちになってしまった。
自分がプレイヤーとして書いていきたいのか、はたまた編集者として書く人のサポートや激励をしたいのかまだ釈然としない。編集職に就きたいと思ってはいるけれど。
分かんねーーーとりあえず授業始まるからいってきます
また書きます
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