持論とか価値観とか色々


ほぼ自語り記事です。言語化しておきたいなってだけです。細かく同意してくれなくてもいいので「こういう人もいるんだな~」という理解だけはお願いします。

持論と価値観

過去・現在・未来、について

「過去」というのは時折ネガティブな意味で表現されることがあります。「過去をひっくり返す」とか、「過去なんか関係ない。今の君がいい」とか…。

でも、私はそうじゃないと思っています。

「今」を重ねることで「過去」ができる。
それは、その人が生きて体験したことすべてです。
つまり、「過去があって今がある」と…いや、違うな。「『今』を過ごしていれば、誰も侵すことも変えることもできない『過去』ができる」、という感じでしょうか。4行前のと言葉がほぼ変わってない。まぁいいや。いや良くない。「『今』に全ての比重を置いている」、という感じかな。

なので、上記の「ネガティブな意味で表現される言葉」が苦手です。その言葉はつまり、「私自身の人生を否定された」ように感じてしまうのです。

死生観について

私は、大学時代にいちど鬱状態になりました。現在は静まってはいますが、奥底でくすぶっている感じです。たまに表に出てきたりもします。

その際に、希死念慮というものが私の中で大きくなりました。当時はもう本当に…「生きる」ことに対しての絶望感がすごかったような。すごすぎてあんまり動けなかったような。
今はもうちゃんと日常に溶け込める程度には動けています。いますが…なんというか、「生きたい」と思って過ごしてはいません。「いつ死んでもおかしくない」と思って過ごしています。鬱状態が表に出てくると「早く死にたい」になります。しかし臆病なので死ねません。親が高い所からの風景を見るのが好きみたいでよく展望台とか連れて行ってくれるのですが、展望台から風景を見た時や橋の上にいる時の私の脳内はだいたい「今ここから落ちたらどうなるのかな…」「今この橋が崩落したら…」という感じです。

なので、死生観としては…「命より軽いものはない」、というまとめになるかな?
自殺ではなくても、ある日突然車が突っ込んできたり、病気が蔓延したり、通り魔に襲われたり、そういうことであっけなく死ぬもの。命というのはそれぐらい軽いもの。だからこそみんな必死に守って生きようとしているんだと、そんな感じで思っています。私は別に将来どうするために生き抜こうとかは全く思っていませんが。

座右の銘について

そんなこんなで今の私の座右の銘は「どうせ死ぬんだから"今"やりたいことをやる」です。

やりたいことをやりたいけど推し活とかするためにお金が必要だからバイトしてるから派手な髪色にできない。ちくしょう。毎回差し色エクステ着けるのも面倒だし毛が抜けるしあれ。

「愛」について

これも言語化しておくか。私は、「愛」とは「心」とほぼ同義だと思っています。

「好きの反対は無関心」という言葉を聞いたことがあります。私は、それを「愛を全く向けていないから、無関心だ」と解釈しています。逆に、好意でも愛情でも、憎悪でも嫌悪でも、何かしらの感情がある時は「愛を向けている状態だ」と考えています。

何かしらの感情がある時。つまり、心が動いている時(と言い切っちゃうとなんか違う気がしなくもないけど)。というわけで、先の「愛=心」だと考えています。

恋愛観について

恋愛遍歴に関してはとりあえず細かくは割愛。(そのうち追記するかも)

今は、「彼氏も彼女もいらない、結婚もしたくない」という考え方で落ち着いています。恋愛するなら自分がもう一人欲しい、それか二次元の方がまだマシ、いや人間の温もりを持った等身大の人形が欲しい、みたいな感じ(?)

これは、私が他人と合わない、というのもありますが、恋愛中の私自身がとっても面倒くさい感じの人間になるから、というのもあります。面倒くさい、というのは、こう、なんだろ…嫉妬深くなるのが度を越してメンヘラっぽくなる感じ。

もう一人の自分が欲しいという感情は、私を一番理解しているのは私自身だから。
二次元の方がマシという感情は、二次元なら(妄想なら)どこまでも自分に都合のいい(全肯定してくれる)キャラが作れるから。

「正義」について最近思うこと

私はBLEACHで育ち、ヒプノシスマイク(「MAD TRIGGER CREW -BAYSIDE M.T.C-」の発売時ぐらいにハマって2ndDRBが始まったあたりで離れて7thライブが終わったあたりに戻ってきました)にハマったりツイステやヒロアカやあんスタを途中まで履修してたり、色々通ってきました。その中で様々な「正義」に触れてきました。

「大儀なき正義は殺戮にすぎない。だが、大義の下の殺戮は、正義だ」(BLEACH:東仙要)とか。
「戦争なんて始めた瞬間からどっちも悪だよ」(BLEACH:京楽春水)とか。
「戦争というのは、どちらも正義だから起こるんだ」(BLEACH:可城丸秀朝)とか。
守沢千秋の正義観に対する天祥院英智の考え方とか。
ツイステのキャラは(ヴィランズがモチーフだからか)各々が各々の考えに沿って行動していること(例:監督生がメインストで厄介事に巻き込まれるのは大体が「学園長に脅されたため」、2章でエーデュースが事件解決に向けて監督生を手伝うのは「解決に貢献すれば代表選手になれる可能性があるため」(ちょっとうろ覚え)、等)とか。
ツイチャンアベマで、ジャックが常識人のように見えるのは、ジャックの持つ「正義」がたまたま世間一般のそれに似ていたから、というお話をされたのも記憶に残っています(細かい所は違うかもしれない。今確認する方法がない)。

特に、今の私の「正義観」を作り上げたのは、ヒプノシスマイクの「麻天狼 -音韻臨床-」というCDのドラマトラック1でした。

麻天狼 -音韻臨床-のドラマトラック1

簡単に内容を説明します(ネタバレが嫌な人はどうにかスクロールするなりして自衛してください)。
ドラマトラック1は、麻天狼が結成するにあたったエピソードです。独歩は、親友である一二三を連れて寂雷(独歩の主治医であり仕事の取引先でもある)を訪ねます。そこで二人は「ホストとしての一二三がストーカー被害に悩まされている」ことを寂雷に相談。一二三は「彼女を治療してあげてほしい」と寂雷に依頼します。寂雷は受領し、萬屋ヤマダを利用して彼女の居場所をつき止め、3人は会いに行きます。寂雷と一二三は彼女と対話しますが、彼女は途中で激昂。寂雷がマイクを使い回復させますが、「一二三に顔向けできない。ここから身を投げて償う」とビルから飛び降ります。一二三も(彼女を助けようとして)一緒に落ちますが、独歩がマットを準備していたことで2人とも生還。そして麻天狼が結成されます(ここは本記事の本筋ではないので割愛)。

ここで私が違和感を感じたのは、寂雷と一二三によるストーカーちゃんへの(マイク使用前の)説得の仕方。

まず彼女の状態としては、「一二三を殺して私も死ぬ。そうすれば永遠の愛が完成する」という考えが脳の大部分を占めている状態でした。
私もこういう状態を経験したことがあります。鬱病だと診断された時、頭の中に希死念慮と否定されることへの絶望感しかなかったような記憶があります。私はこの時、「頑張れ」だの「治して」だの、かけられる言葉のほとんどを受け付けませんでした。そういう言葉は全部「"私"が否定されている」と感じたためです。

大学の休学手続きの為に必要な「診断」でしたが、当時は(いや今もだけど)病院に行くのも嫌でした。私の状態が病気=治さなければならないもの、だとされるのが嫌だと考えているためです。お金かけてまでやることじゃない、とも思っています。

もし彼女も、当時の私と同じように、かけられる言葉を「"私"が否定されている」と感じて受け付けられない状態になっていたとしたら…(いやまぁ、結局は彼女本人にしか真実は分からないですが…)。そんな感じで私は彼女に感情移入しながら聞いていました。

そんな彼女に2人がかけた言葉。
寂雷「君のその一二三くんに対する想いは常軌を逸している」
一二三「僕も君が社会復帰できるように尽力するから」

そしてそれを聞いた彼女の激昂の仕方。
「ふざけないで!私の一二三に対する想いが病気だと!?」
「何が社会復帰だ!!この気持ちが病気だなんて信じない…一二三を殺して、証明する!」

彼女の言い分がとっても理解できる。というかそりゃ私でも激昂するわ。今の彼女の考え方を「異常」だとし、「一般社会に馴染めるように"治療"してあげる」とまで言われてしまったんだから。つまり、"今の彼女"を全否定されてしまったんだから。

そして、激昂し一二三にナイフで襲い掛かった彼女を寂雷がマイクで回復(=治療)したシーンは、もう「治療」ではなく「洗脳」にしか思えませんでした。

「洗脳」だと思った理由は、「彼女自身が今のこの状態を治療したいと思っていたか」がわからないからです。
ドラマトラックの内容でも触れた通り、彼女の治療を依頼したのは彼女自身ではなく一二三。つまり、彼女自身の意思を全く無視した状態でこの「治療」が行われているのです。
前述したように、彼女が本気で「一二三を殺して私も死ぬ。そうすれば永遠の愛が完成する」ことが彼女自身の救いになると考えていたとしたら…この「治療」はもう「治療」ではない。ビルから飛び降りて一二三と一緒にマットで助けられた彼女は、あの後どう思っていたのでしょうね。

まぁ、何度でも言いますが、結局はストーカーちゃん本人にしか真実は分からないですが…。

正義観

そんな私がたどり着いた「正義観」は以下です。

まず「医者やヒーローが"正義"であれるのは、救う相手本人から"助け"を求められた時だけだ」というもの。

病院は、「問題(症状)を抱えた人が患者として医者に助けを求めに来る場所」だと思っています。患者本人が治療を求めているから医者が適切に治療を行う。だからこそ医者に正義があるのだと思います。これは、往診とか、出先で緊急事態に居合わせた医者が治療を行う等の場合でも同じ話だと思います。

ただ、病院に来ている患者本人が治療を求めていない場合は割とあると思います。例えば親が子供を連れてきている場合、その子供が本当に治療を求めているかというと…微妙なところかもしれない。その子が「治してほしい」じゃなく、「治すもの(義務)」だと無意識に思っているかもしれないし、親が「治療することがこの子の為になるはずだ」と押し付けている可能性だってなくはない。

ヒーローも同じ。子供向けアニメとかだと、困った状況に陥っているキャラが「助けてー!」って叫んだ時にヒーローが登場するシーンがあったりします。先に述べた「救う相手本人から"助け"を求められた時」ですね。

次に「人の数だけ『正義』の数がある」ということ。

私みたいなのもいれば、一般常識に沿った考え方をする人もいる。そこだけは理解して欲しい。いやまぁ『正義』に限った話ではないですが。



最後何書くか思い出せなくなったのでとりあえず一旦この辺で。またしれっと追記するかもしれません。

(ちなみにこの記事を書いている期間、自分を改めて見つめて理解してきていたからかとっても吐き気がすごかったです。ずっとTwitterで「死にたい」「植物ゾンビになって焼かれたい」「人の温もりを持った人形が欲しい」って言いまくってた気がする。すまんフォロワーさん。)