グリッチ (9)

 俺に与えられた部屋はホテルの客室で、321号室だった。クイーンサイズのベッドがあるか、ベッドが二つ以上ある広めの客室は家族用、小さめの部屋は独身向けと使い分けているそうで、シングルルームが集まっている三階東側部分が、言ってみれば独身寮なのだそうだ。

 321という部屋番号を俺に告げたのは、妙に馴れ馴れしい若い女だった。俺は、この島に来て三日目に目覚めて以来、ずっと同じパジャマを着ていたが、この女が風呂敷に包んだ俺の服を持って来てくれた。洗って繕ってくれたという。

「血だらけでぼろぼろだったから、大変だったわよ。捨てちゃおうかと思ったんだけど、代わりにあげられる服が今は無いから。要らない服が山ほど余ってるわけじゃないからね」

俺は、お辞儀をして礼を言った。女は、

「あら、なんだか、馬鹿丁寧ねえ。いいわよ、別に。洗濯と繕い物があたしの仕事なんだから」

と言い、けらけら笑った。

「あたし、万里亜っていうの、よろしくね」

「神山竜樹です。よろしくお願いします」

万里亜は俺の顔をまじまじと見て、

「本当に馬鹿丁寧ねえ」

と感心した。俺は、風呂敷包みから、ベルトを出して身に着け、ベッド脇にずっと立てかけてあった大小を、ベルトに設えた専用の輪に差した。万里亜が、

「恰好いい。惚れ惚れするわあ」

と大げさに褒めたので、

「いやあ、これで、杖がなきゃ歩けないんですけどね、まだ」

と言うと、俺の右腕にぶら下がるように絡まり、

「助けてあげるわよ」

と言うのだった。馴れ馴れしさが気味悪かったのもあるが、腕にぶら下がられては益々歩き難いので、杖で歩く方が楽ですから、と断った。万里亜は残念そうに頬をふくらませたが、俺の荷物を持って部屋まで案内してくれた。当然ながらエレベータは動かないので、杖を突いて階段を三階まで登らなければならなかったが、左脚に全体重を掛けず、ゆっくり歩けば、どこも痛くはなかった。

 万里亜は、俺の部屋にずかずか一緒に入り込み、見ればわかる部屋の設備を一々説明してくれた。ホテルの従業員なのかと思うような振る舞いだった。パジャマのままの俺に、脚が痛そうだから着替えを手伝いましょうか、と聞いた。俺はすっかり面食らっていた。この女は、一体、俺から何を得たいのだろう。

 しばらく部屋で休むと言って着替えの手伝いなど断ったが、万里亜は、それならと、俺の僅かばかりの服を風呂敷包みから出し、クローゼットに掛け始めた。風呂敷包みの中に見慣れた袋があったので、俺は慌てて中を確かめた。目釘抜き、打粉、丁字油の小瓶の三点が確かに入っていて安心した。それらを、とりあえずベッドサイドテーブルの引き出しに入れた。

 万里亜に何か必要なものはないか、と聞かれたが、こんな贅沢な部屋に突然通されたら、必要なものは全部揃っているとしか言いようがない。何も思いつかなかったら、では、水を汲んで上げる、と言い、万里亜は、一旦、浴室に入り、しばらく後に、水差しに汲んだ水を持って来ると、湯のみと並べてコーヒーテーブルに置いた。俺は、

「あなたは、俺の世話係なんですか」

と聞いた。万里亜は弾けるように笑い出し、

「ばかねえ。そんなわけないでしょ。親切よ。ただの親切。あたしは洗濯係なんだから」

と言うのだった。俺は妙に居心地が悪くなり、眠いと嘘をつき、丁重に礼を言って万里亜には出て行ってもらった。

 

 部屋のドアを閉める際に気付いたが、ドアに外から鍵をかける手段がなかった。この建物がホテルだった頃は、カードキー式のオートロックだったらしいが、今は常時停電だから、施錠できなくて当然だ。内鍵はあり、室内に居る間は施錠できる。それで困ることもないのだろう。盗まれるような貴重品は、刀を除いて無いからだ。

 改めて室内を振り返ると、嘘のように常識的なリゾートホテルの客室だが、部屋の四方は床のコンクリートが剥き出しだった。元々敷き込みの絨毯は、掃除機が無いと掃除が困難で、全室、一度剥がし、外に持ち出して洗ったり干したりはたいたりできる大きさに切ったものを、家具の周りに敷き直したのだと、万里亜が言っていた。そう言われてみれば、廊下や階段も、コンクリート打ち放しになっていたのは、そういう事情だったのだ。

 入り口の隣にバスルームがあった。トイレの蓋はやはり便座に接着されており、誤って排水しないように、バスタブや洗面台の排水口も塞がれ、洗面器と水甕と空のバケツが置いてあった。水甕にはなみなみと水が張ってあり、これが上水で、排水はバケツに溜めて外に捨てに行くという方式だそうだ。

 洗面台には十センチくらいの使いかけの蝋燭が、十二センチくらいの広口のグラスの中に立っていた。蝋燭を点けても周囲のものに引火する危険がなく、風で消える心配もないように考えられている。グラスは恐らくこのホテルの備品だったウィスキーグラスだろう。寝室の方を見ると、やや大きめのシングルサイズと思われるベッドの横にベッドサイドテーブルがあり、やはり、グラス入りの蝋燭が置かれていた。マッチが一箱、小皿に乗っていた。窓際には、小さなコーヒーテーブルと独り掛けのソファ二脚のセットがあり、壁に作り付けの事務机の隅で、卓上ランプと電話機が埃にまみれていた。

 やはり埃を被った分厚い遮光カーテンの向こうには、曇ったガラス窓の先に、灌木帯と、浜と海が見えた。この島を一歩出ると本土は戦場で、すっかり荒廃しているということは、全く忘れてしまいそうな光景だ。俺は一体、ここで何をしているのだったか。

 ふと思い出し、万里亜が先ほどクローゼットに仕舞っていた風呂敷包みを、もう一度確かめると、あった。

 亡くした仲間のうち三人は、形見として髪の束を俺に託していた。俺はそれを紙に包み、元はパスポート入れだったと思われる小袋に入れて首に掛けていたのだった。紙には彼らの名前と実家の住所が書いてある。いつの日か、戦争が終わり、彼らの実家のあった場所を訪れることができ、家族に会えたら渡すという、最早、実現不可能な約束だ。

 三人のうちの一人、政には、俺も自分の髪を一房、託してあった。政は、それを首に下げたまま、あの山で息絶えた。その光景を思い出しそうになり、俺は頭を左右に振って記憶を退けた。

 形見を入れた小袋を、クローゼットの下に付いている貴重品入れに仕舞い、大小をベルトに差し、部屋を出た。

 廊下の端の階段をゆっくり下り、無人のフロントデスクの前を通り、外に出た。海に行きたかった。もちろん水に入るつもりはないが、浜を歩きたかった。八歳から小田原に住み、湘南の海で泳いで育ったから、「生まれつきの」とは言えないが、海の子だ。こんな日が来るとは、八日前には考えられなかったが、海があるなら海を見に行かなければ気が済まない。

 松葉杖を突きながら灌木の根の張る浜地を歩くのは、少々根気が要ったが、これがちょうど良いリハビリだと思い、俺は灌木帯を抜け、部屋の窓から見えた島の南端の浜に出た。視界が開け、目の前には、きれいな白い浜と、遠浅の海があった。浜の右端に、桟橋が延び、手漕ぎボートやカヌーが舫ってあった。

 俺は、しばし立ち尽くした後、浜を歩き始めた。視界を遮るものもなく海が広がり、水平線を境に雲一つない夏空が天蓋を覆い尽くしていた。右手に見える隣の島の緑を除き、すべて青だった。もう、どこから蠍が現れるか、常に警戒する必要がなかった。どの方向に歩いて行ってもよかった。一日中空いている腹を満たすために、必死になって食糧を探す必要もなかった。今日一日に必要な水の備蓄を確認する必要もなかった。水を得るために命がけで井戸まで汲みに行く必要もなかった。

 俺はこの時、自分が、三年以上続いた苦痛と緊張から、唐突に解放されたことを実感した。俺は安全な場所に居て、自由だった。こんな日がまた来るとは、思いもよらなかった。

 しかし、この自由と安心を共に分かち合いたかった者達は皆、死んでしまったか、行方知れずだ。生存と自由を突如許された俺には、家族も、過去三年の月日を共にした仲間も、一人も居なかった。これを喜ぶべきなのか、悼むべきなのか、よくわからなかった。俺一人が、こんな風に突然解放されたことに、一体、どんな意味があるのだろう。この自由を何に使えというのか。俺はただ、漫然と生き永らえるために、ここに来たのか。

 沖に、一艘の小舟が現れ、船上に人が一人居た。漁をしているらしい。俺はその様子をしばらく眺めていた。やがて、その船影が徐々に大きくなり、桟橋の方へ進んで来た。俺はその舟に引き寄せられるように、桟橋へ歩いて行った。

 遠浅の海に浜から十メートルほど伸びる桟橋の端まで行くと、海側から、五十年配の男が一人乗った小舟が寄って来た。

「おお、新入りさんだね」

とその人は言った。俺は、

「神山竜樹です、こんにちは」

と挨拶した。

「はい、こんにちは。わしはね、暮内六郎というんだよ。みんな、六郎さんと呼ぶんだよ」

「六郎さん、ですか。はじめまして」

「はじめまして、じゃないんだよ。あんたは覚えてないだろうけどね、あんたが最初にここに着いた日にね、浜であんたに銛を向けたのが、わしだよ」

俺は、農具や漁具を持った男達に取り囲まれたことは覚えていたが、一人一人の顔は覚えていなかった。

「すまなかったね。あんときゃ、あんたが深雪様を襲っているように見えたからね」

俺は何と答えてよいかわからず、いや、とか、はあ、とか相づちを打っていた。

「怪我の方はどうかね」

と聞かれ、

「あ、もう、抜糸してもらって、杖を突いて歩けるようになりました」

と答えた。

「そりゃ良かった。じゃあ、一緒に釣りに出るかね。わしは今、沖でサビキをしてきたんだが、どうも釣れないから、東の浜の岩場の先に行ってみるんだよ」

俺はまたしても何と答えてよいか、わからなかった。釣りは面白そうだが、海水に濡れてはいけないと、きつく言われていた。ところが、ここの島民ならその辺りは良く心得ているのか、六郎さんは、こう言った。

「あんたは怪我してるから、濡らさないようにしないといけないけど、今日は波が無いから心配ないよ。あの岩場の先に結構いい漁場があるんだ。一緒に来るなら手釣りをさせてあげるよ。キスなら素人でも幾らでも釣れるよ」

 舟に乗る時に誤って海に落ちないように、桟橋の元まで舟を近寄せると言ってくれるので、俺は桟橋を歩いて戻り、俺が陸から乗って座った小舟を、六郎さんが浜に一度下りて、海水に押し戻してくれた。舟の上には櫂が二本あったが、他に長い竿もあり、六郎さんはそれを砂に差して押し、海上に出た。

(つづく)

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