グリッチ (19)
「向こうの端まで行きましょう」
と、のんぺいが言い、連れ立って浜辺を歩き始めた。陽はもう大分傾き、もうすぐ夕陽が見える時刻だが、この島の西側は本州の陸地なので、海に沈む夕陽を拝む事はできない。浜にはもう、誰も居なかった。
「万里亜ちゃんを振ったそうですね」
いきなり言われ、俺は立ち止まった。
「なんで知ってるんだ」
「万里亜ちゃんが、いろんな人に話して、嘆いているの聞いたから」
なんだ、そうなのか、と拍子抜けした。
「俺のことを悪く言ってるのか。何かまずいことになってんのか」
と聞くと、
「いや、全然。むしろ、便利なことになりました。おかげで僕たち、恋仲の噂」
と言う。
「僕たちって、お前と万里亜か。お前、万里亜のことが好きなのか」
と聞いたら、のんぺいは笑った。
「違いますよ。僕たちってのはあ、僕たち。僕と竜兄」
「なんだと」
「だって、万里亜ちゃんは、島一番可愛い顔だし、世話好きじゃないですかあ。それを振るってんだからあ、しかも、この女子不足の時代にですよ。よほどの事情だってんで、男色にちがいないって…」
のんぺいは、笑い出して先を続けられず、しばらく一人で腹を抱えて大笑いしていた。俺は、笑っている場合じゃないだろう、と憤慨したが、しかし、考えてみれば、笑っている場合じゃない理由も特にないのだった。今の俺は別に、カノジョを募集しているわけではない。しかし、
「俺はそれでもいいって言やいいが、お前が困るだろ。カノジョできないだろ、それじゃ」
と言うと、のんぺいは突然、真面目な顔をして、
「カノジョ作るのが、僕にとって、そんなに大事なことだと思いますか」
と聞いた。俺は面食らった。のんぺいは、いつもへらへら笑いながらふざけたことを言っているようで、何を考えているのかさっぱりわからない。
「大事なことじゃないのか?」
「僕は竜兄の傍にいられればいいです」
これは告白なのか。のんぺいは俺のことを好きだと言っているのか。俺は反応に困り、棒立ちになった。いきなり、のんぺいが転げ回りそうな勢いで笑い出したので、からかわれたと気付いた。
「てめえ、この野郎」
頭を小突いてやろうとしたが、のんぺいは、杖を突きながらも実にすばしこく逃げた。俺から三メートルくらいの距離を取り、
「わーい、ひっかかった、ひっかかった、今の竜兄の顔、最高」
と言い、更にげらげら笑った。俺も釣られて笑いながら、のんぺいを追いかけ回し、ひとしきり、ふざけていた。それがまた、のんぺいの狙いだったとは、言われなければ気付かないのだから、俺は頭の回転が鈍い。
「竜兄、もう、このくらいでいいでしょう。誰かがあの辺から見ていたとしても、僕たちの恋仲疑惑はこれで決定的だからね」
そう言うと、のんぺいは、片足と杖で、苦もなく器用に砂浜に座った。俺も隣に座ったが、その途端に、のんぺいが本題に入った。
「竜兄、姉貴には手を出さないでくださいね。竜兄にこの島に来てもらったのは、多分、そのためではありません。僕より強い人が一人必要だったんです。いつか、僕を止めてくれる人が」
どこから手を付けたらよいのかわからないことを立て続けに言われ、俺はしばらく目をぱちくりしていた。のんぺいは、それ以上何も言わなかった。望月が言ったことを思い出した。のんぺいには、一体どんな特殊能力があるのだろうか。
「やっぱり、箱根のあの山里に居るって知ってたのか?」
「はっきりと知っていたわけじゃありませんよ。でも、姉貴は知ってたんですよねえ。時々、一人で箱根に行っていたから。富士山を見に行くとか、わけわかんないこと言ってたけど、あれは嘘ですね。きっと、予知夢か白昼夢を見たんでしょう。見たことないところには行けませんからね。まあ、わかりやすく言えば予感のようなものです」
そう言われても、俺には想像のつかないことで、わかりやすくなかった。
「あの日は、姉貴が、今日は箱根行かなきゃ、という確信があったみたいだったんです。だから、何か凄い事が起きるとは思ってたんですけど、姉貴が死にかけたのは予定外で、肝を冷やしましたよ」
のんぺいは、このことについては、これ以上説明する必要なし、というように、もう何も言わなかった。だから、俺は次の質問をした。
「お前より強い人ってのは、どういう意味だよ」
「さああ」
のんぺいは首を傾げて、おどけて見せた。
「さあって、お前が自分でそう言ったんだぞ」
「僕にも全部わかるわけじゃないんですよ。ただそういう気がするだけなんです」
この話もこれで終わり、というように、のんぺいは先を続けなかった。
のんぺいは色々な事を知っていると望月が言っていたから、俺には沢山聞きたいことがあった。しかし、この調子では何を聞いてもはぐらかされてしまいそうだった。俺は一番知りたいことを先に聞こうと思った。
「蠍はどこから来たか、知ってるのか」
すると、のんぺいは、いとも簡単に、
「ああ、それなら」
と答えた。
「なんだと。知ってるのか」
「まあ、なんとなく」
俺は先を待ったが、のんぺいは、またしても黙りこくってしまった。
「じらすな。話してくれよ。奴らはどこから来たんだ。どうしたら奴らに勝てるんだ。知ってるなら話してくれよ」
のんぺいは、杖の先で、砂に幾何学模様を描きながら、しばらく考えていた。俺は辛抱強く待った。
やがて、のんぺいが、口を開いた。
「どこから来たか正確には知りませんけどね、多分、樹海からってのは当たってますよ。どうして来たかは知ってます」
「どうしてだ」
「僕たちが望んだからです」
「はああ?」
「人間は、闘いが好きなんですね。いつも何かと闘っていたいんです。蠍戦争になって大変なことになったと嘆くけど、こうなる前も、皆、大変なことになってましたよね。まあ、主に不景気とか、お金がないとか、仕事がないということについてね。お金にまつわる闘いを、ずっと闘ってましたよね。だから、蠍は、新しいお金です」
のんぺいは説明したつもりかもしれないが、まったく説明になっていない。
「全然わからん」
「僕たち人間が困難を克服したいと望む限り、克服すべき困難は必ず出現するということです。有史以来、人間は闘いが好きなんです。人間は逆境で頑張るのが好きなんです。それが美徳だと思っているし、闘う人間が英雄だと思っているし、困難と闘っていないとすぐ飽きて、憂鬱になるし、でも、困難と闘っていてもやっぱり憂鬱になるし、僕らが憂鬱にならないのは難しいんです。まあ、だから、蠍は、僕らの憂鬱です」
正直に言うと、俺はのんぺいの言ったことが一言もわからなかった。俺が知りたいのは、ただ、どうしたら、今の状況から抜け出して、元の世界を取り戻せるか、だけだ。
「どうすれば蠍に勝てる」
「恐らく、闘わなければ」
俺は仰天した。
「何をばかなこと言ってるんだ。闘わなければ、こちらがやられるじゃないか」
「そうですよねえ。でも、闘えば闘うほど、蠍は増えますよ、きっと」
「死ねと言うのか」
「確かに、死ねば別世界に行きますよね」
この時、のんぺいの言ったことが、深雪に運ばれて初めてこの島に着いた時に感じたことと、妙に符合した。
「ここは、そもそも別世界だと言いたいのか」
「それもあり得ますね」
「俺はあの日、箱根で一度死んだのか。死んで別世界に来たのか」
のんぺいは、俺の目をじっと見つめ、意外な事を言った。
「逆に、今、竜兄が生きているという証拠はどこにあるんですかね」
俺は答えに詰まった。
「竜兄、今、二十四ですよね。この世界で本当に二十四年生きて来て、今ここに生きて在るという証拠はどこにあるんですか」
俺は唖然とした顔で、のんぺいを見返していたに違いない。こんな質問に、一体何と答えろというのか。
「僕たちは、九十九・九九九パーセントくらい真空だって、知ってます?」
「知らねえよ」
「高校の物理学でやりませんでした?」
「やらねえよ。俺は、頭悪くても入れる学部選んで、ちゃんばらやるために大学行ったんだよ」
「あ、そうなんだ。じゃあねえ、教えてあげます。僕たちはほとんど真空なんです。僕たちの身体の細胞を作っている物質ね、炭素とか酸素とかそういう物質の原子の構造を電子顕微鏡で見ると、真ん中に陽子というものが幾つかあって、その周りを電子というものが幾つか軌道を描いて旋回しているんだけど、その陽子と電子の間の距離がものすごく遠いので、原子はほとんど空間だけでできているんですよ。太陽系みたいなもんです。真ん中に太陽があって惑星が幾つか旋回しているけど、太陽系の体積の大半は真空です。宇宙もそう。宇宙の大半が空なのと同じで、人体も実は空っぽなんです」
こんなことは初めて聞いたので、俺は答えようも無く黙っていた。
「どうしてインド人は顕微鏡無いのに知ってたんでしょうね、一切は空だって」
「のんぺい、頼むよ、俺にわかるように話せ。なんでインド人が出て来るんだ」
「ああ、だからあ、色即是空、空即是色、一切は空って、般若心経で言い切ったのは、インド人だから。それも紀元前に。電子顕微鏡持ってなかったのに。やっぱり、アカシックレコード読みに行った人が書いたのかなあ、あれは」
もうお手上げだった。全くどこから手を付けてよいかわからない。
「のんぺい…」
「あ、ごめんなさい。だからね、全身空っぽのくせに、竜兄がこの世界で二十四年間生きてきて、今ここに存在しているという物理的証拠はどこにあるのかって話ですよ」
「俺が二十四年生きて来たことは、俺自身が一番よく知ってるよ」
「つまり、竜兄の主観的記憶以外の証拠はないということですよ」
「どういう意味だ、俺は実は存在していないとでも言いたいのか」
のんぺいは俺の視線を外し、海の方を向いた。
「まあ、パラレルワールドと考えることもできますよね。百歩譲って、竜兄が二十四年生きて来たのは真実だとしても、途中で住んでる世界がどんどんすり替わっちゃったかもしれませんよ」
パラレルワールドという言葉が、またしても、俺がここに来てから、何度も感じたことと不思議に符合した。俺は、何かを掴みかけているような錯覚を得た。
「じゃあ…それなら、別のパラレルワールドに飛び移れってことか? そうすれば蠍に勝てるのか」
「勝てるって言い方には語弊がありますが、まあ、蠍の居ない別世界に行けるかもしれません。まあ、また別の困難が待っている可能性は高いですが」
そこに突破口があるということだろうか。
「どうやったら飛び移れる?」
「さああ、僕にもそこまでは」
俺は苛立ち、思わず声を荒げた。
「お前、そんなのんびりしてないで、頭良いんだから調べろよ。どうすれば俺たち皆でパラレルワールドに飛び移れるのか」
すると、のんぺいは、飄々と言ってのけた。
「あ、それは違います。皆でってのはあり得ません。移るとしたら一人だけ、自分一人だけです」
「どうして」
「どうしてもこうしても、人は所詮一人だから。但し、一人で全部とも言いますよ、クォンタムセオリーではね。シュレディンガーの猫って知ってます?」
「知らねえよ」
「シュレディンガーってのは、ある物理学者の名前なんですが、その人が考えたのが、猫を箱に入れて、猫がある時突然死ぬかもしれないような毒殺装置を箱に仕組んだら、箱を開けて見る前の猫は生きているのか死んでいるのか、どちらでもないのか、という問いですよ」
「生きてるか死んでるかのどっちかに決まってんだろ、見るまでは見えないだけで」
「と、普通の人は考えるんですけどねえ。観察者が観察するまで、どちらでもない状態に留まることがあり得ると、コペンハーゲン解釈では考えるんです」
「コペンなんだって?」
「コペンハーゲン解釈。コペンハーゲンって、デンマークの首都」
なぜデンマークが出て来るのか、もうさっぱりわからなかった。俺は溜め息をついた。
「お前なあ、わかるように話せよ」
「それは、数学者に、数学記号を使わずに数式を語れと言うようなものですねえ」
こいつに何かを教えてもらおうと考えたのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
(つづく)