グリッチ (21)

 そういうわけで、翌日、伝令係で飛脚のアントニーが俺のところにやってきて、師匠が呼んでいると告げた。

 師匠は桟橋で待っていた。誰にも聞かれずに俺と話をしたいのだろうから、何の話か、すぐに想像がついた。案の定、

「信行のことなんだが」

と切り出され、俺は困り果てた。のんぺいと「恋仲」になった本当の理由を話せば、そちらの方が遥かに大問題なのだ。この場面をどうやって切り抜けようかと思案していると、師匠が意外なことを言った。

「いや、誤解するな。あの子がそういう子なら、わしはそれでもいいと思っている。こうなる前だったら、わしも、なんだかんだ口出ししていたかも知れんが、今の時代は、とにかく子ども達が生きていてくれれば何でもいい」

こういう師匠に嘘をつくのは、心苦しかった。嘘はつかないが本当のことは漏らさないという芸当ができるだろうか。

「師匠、誤解です。俺は、のんぺいの、信行君の友達になっただけです。友達居なかったでしょう、これまで」

師匠は、至極真面目な顔をして頷いた。

「あの子は、この世のものではない」

やはり親でもそう思うのか、と俺は思った。

「八歳の頃から、哲学書を読み漁り、何を考えているかわからない子になった。だが、本人はあれで結構、満足そうだ。脚を怪我した後も、痛みが無くなったら、一度も泣き言を言わん。親のわしが言うのも変だが、何をどう悟ったら、ああなるのかわからん、手のかからない子だ。だから、あの子の好きにさせるつもりだと、言っておこうと思っただけだ。わしに遠慮はするな」

師匠は良い親だ。こういう人に隠し事をするのは罪深い事のように思えたが、本当のことを打ち明けるわけにはいかなかった。

「師匠に遠慮はしていませんよ。俺は信行君の友達になったんです。ていうか、信行君は兄が欲しかったのかもしれませんよ。だって幾らなんでも、いつも一人で本を読んでいるんじゃ、つまらないでしょう。師匠のお宅に子どもの頃お世話になってた時も、兄弟みたいなものだったじゃないですか」

師匠は、半信半疑という顔をしていたが、

「そうか、それならまあ、安心した」

と言い、俺を解放してくれたから、やれやれだった。

*   *   *   *   *   *   *

 昼過ぎから風が出て、時々横殴りの雨が降った。台風情報をテレビやラジオやインターネットで確認できないというのは、なんと不便なことか。この雨が台風か、ただの雨か、誰も知り得ないのだ。

 龍王島の農地の方で野営している男達が、ボートを漕いで宿泊棟に戻って来た。海がかなり時化て来ていたので、皆、ずぶ濡れで、各々の部屋に着替えに行った。土木作業も農作業も修繕も洗濯も中止となり、八十人余りの村民の全員が集まったホテルは、俄に避難所の様相を呈して来た。野営生活の男達とは、これまでにも日曜日のカミキリムシ獲りの際に話したことがあったが、ロビーや食堂で一緒にくつろぐ機会は初めてだ。こういう時は、酒があると話が弾むのだろうが、残念ながらこの島には、師匠の方針で酒がない。本土から持って来ることは可能なはずだが、今まで酒を島で見たことがなかった。望月に聞くと、重さの割に百害あって一利無しとして、酒は持ち込まないと決まっているそうだ。

 村民全員が同時に食事をするのは不可能なので、夕食は入れ替え制になった。食器が足りなくなり、誰かが外の井戸端で洗わなければならないと聞いたので、俺と望月が皿洗いを買って出た。

 皿を洗いながら、望月が、禁酒に至った意外な経緯を話してくれた。

 まだ、調達部隊が七人で町に入って調達していた頃、酒を持ち帰ってきたことがあった。久々の酒で、皆、ほろ酔い気分になり、三々五々、自分の部屋に寝に帰ったが、外に涼みに出た一人の女が乱暴された。その女は鳩尾に一発喰らって息が止まり、酒の匂いがしたことくらいしか覚えておらず、犯人を特定できなかったため、この件は女の手当をした池田先生と師匠と望月しか知らないという。

 師匠が望月に話したのは、酒の調達を絶対禁止にする理由を説明し、調達のついでに懐に一本、酒を忍ばせて帰って来る調達隊員が出ないように徹底させるためだった。他の島民は、このような事件があったことすら知らされておらず、酒の調達がないのは、重量と優先順位の問題だと思っているという。そのうち、深雪一人で調達に出るようになったので、酒の優先順位は最下位になり、もう誰も酒の調達を期待しなくなった。

 最初で最後の酒盛りをした夜以来、望月は、酒の勢いで女を乱暴したのが何者か知らないまま、二年近い月日を同じ島で暮らしてきたのだった。だから、正子さんを夜中に一人では外に出さず、日が暮れた後はトイレにも付いて行くと言う。望月も、乱暴された女の名前を知らされなかったというから、もちろん、俺も知り得ない。知っているのは、池田先生と師匠と本人だけだ。

 望月は、誰にも言うなよ、と口止めした。

「俺に言って良かったのか」

「お前は腕が立つし、明らかにシロだからさ。実は師匠にも、お前に話すことは言ってある。若い女や子どもが、人気のないところに一人で行くようなところを見たら、気をつけてやってくれ」

「わかった。だが、鳩尾に一発で女を無抵抗にして乱暴したってことは、多少、武道の心得があるか、喧嘩の仕方を知ってる奴だろう。誰だ。まさか、俺たちの一人ってことは、無いだろうな」

俺たちというのは、親衛隊のことを意味している。

「それは無いと思いたいよ、俺は。でも、酒が入ったら人格変わる奴も居るだろ」

と、望月は沈鬱な面持ちで言った。たった五人の親衛隊員の間で、実は互いを完全に信頼することができないと言っているのだった。胸くその悪い話だった。 

 皿を洗っているのか自分が洗われているのか、わからないような雨の中で、洗った食器を積み上げ、ずぶ濡れで戻って来ると、正子さんが、乾いた服を用意して待っていてくれた。もちろん、俺の部屋に勝手に入り、俺の着替えを持って来たのだ。

 この村の人達は、とうの昔に、プライバシーという観念を喪失している。俺も別に気にしなかった。俺の部屋には、刀以外に盗む価値のあるものなど無く、ここの人達は、俺から刀を盗む必要がない。

 望月と俺は、ロビーの一角にあるフロントデスクの裏の元事務所で、濡れた服を着替えて出て来た。万里亜と万里亜の従姉妹に当たる久美子という娘が、ロビーの一角を占拠した独身の男達に、茶を配りながら、談笑していた。万里亜が十九で久美子が二十歳だから、花婿募集中なのだ。望月の話を聞いた後なので、あんなに無防備で大丈夫なのだろうか、と思ったが、七郎さんの息子達で、万里亜と久美子の従兄弟に当たる、瑠果と世波音が、独身者の輪の中に居たから、俺は少し安心した。

 

 若い男達に囲まれ、楽しそうに話している万里亜達を尻目に、俺も望月も、もう寝る時間だと思った。望月の時計で、夜七時半を回っていた。暴風雨の夜など、どうせ何もすることがない。しばらく後には、師匠が、廊下や階段の蝋燭は消すと言い渡すだろう。そうなると、何も見えなくなるから、皆、その前に自分の部屋に戻る。まったくもって健康的な生活だ。

 蝋燭をベッドサイドで吹き消すと、室内は自分の手も見えないような暗闇で、俺は、下着一枚になり薄い夏掛け布団の上に横になった。気温も湿度も高いのに、暴風雨で窓を開けられず、恐ろしく寝苦しい夜になりそうだった。

 望月に聞いた話が俺をなんとも不快な気分にしていた。こんな楽園に住んでも、結局、人間は、酒の勢いで暴漢になり下がるか。酒の勢いで暴漢になる人間と、ならない人間の違いは、大きな違いなのか、小さな違いなのか。人類という生物種には、何か根本的な設計ミスでもあるのか。

 箱根の町中で、チンピラの集団に吸収された時も、実は人間の恐ろしさに驚愕した。この集団は、街中で生き延びていた若い女達を集め、蠍から守ってやる代わりに、家畜か奴隷のように使っていた。それを見かねて意見したのが、政の兄の治で、刀を抜く間もなく、拳銃で撃ち殺された。その夜、俺たちは、奴らと斬り合い、山に逃走したのだった。だが、このことは誰にも話すつもりはない。思い出すのも話すのも不快過ぎる。もう全部、忘れてしまいたい。こういうことを考え始めると、無性にうちに帰りたくなった。だが、もう、うちなどというものは無い。俺たちは全員、根無し草だ。

 

 雨が窓ガラスを叩く音が凄まじかった。湿度と雨音に、苛立ちを覚えた。雨は嫌いだ。木の上で暮らしていた時、雨は水源として、どうしても必要なものだったが、俺たちの生活をこの上なく惨めにするものでもあった。服や髪や身体が濡れたまま何日も乾かないと、人間はそれだけで病気になる。風邪だかインフルエンザだか肺炎だか知らないが、長雨の最中には高熱による死者が出ることもあった。乾物にして保存していた食糧も、雨に濡れればすぐ黴びた。森の中では、雨が降ると、数限りない昆虫が、グロテスクな数、湧いて出た。春雨でも梅雨でも秋雨でも暴風雨でも、水には困らないとは言え、雨との闘いは厳しかった。

 一番、癪に触るのは、蠍は雨を厭わないということだ。蠍は天候の影響を全く受けず、一定の速度で餌を求めて地上を移動し続け、樹上で雨に濡れそぼって震えている俺たちの下を、何事もないかのように悠々と通り過ぎた。俺は幾度も、人類は住み着く惑星を間違えた異星人なのだと考えた。雨にやられ日照りにもやられ、冬の寒さにもやられるような柔な身体は、地球に適応しているとは言い難い。どこか別の惑星から、誤って地球に落ちたきり帰れなくなってしまったのが、俺たちの先祖だったのではないか、などと思ったものだ。

 今年の梅雨、生き残っていた仲間五人をまとめて亡くしたのも、大雨のせいだった。あれも、台風だったのかもしれない。

 昼過ぎから突然降り出した滝のような土砂降りに斜面がぬかるみ、俺たちは、塒にしていた木立に戻ることができず、立ち往生した。雨音があまりにも激しく、蠍の気配にすら気付かなかった。俺たちの背後から迫った蠍は、当然のことながら、捕食を始めた。ほんの数分のうちに、政と俺を除く四人が、地面に組み伏せられ、蠍の餌食になっていた。彼らの断末魔の悲鳴を聞きながら、俺と政は刀を振り回して逃げ惑い、一瞬の間隙を突いて、木に登り始めた。三メートルまで登れば安全だった。しかし、登っている途中で、政が刺された。俺は政を助け上げ、着ていた衣服の一部を裂き、枝に括り付けたが、頑丈なロープではなかったから、政が痙攣を起こしている間、ずっと押さえていなければならなかった。

 翌日、俺が疲れて眠りこけている間に、熱に浮かされた政は、暴れて枝から落ちた。手か脚を折ったに違いない。政の叫び声を聞いて俺が目を覚ました時は、もう遅かった。あっと言う間に、政の身体に蠍の触肢が刺さった。俺はただ、体液を吸い取られる政の最期を、木の上から見ていた。俺にできることは一つもなかった。

 

 俺はうちに帰りたい。なんとかして、うちに帰りたい。ここで木から飛び降りて仲間達の後を追ったら、もしかしたら、彼岸で家族に会えるだろうか。

 家族のことを想った時、母がそこに居た。木の下の草の上をこちらへ歩いて来る。

 母さん、そんなとこに居たら危ない。

 枝から飛び降りて助けに行かなければならないのに、身体が金縛りにあったように動かない。どうして身動きできないのか。俺は木に縛り付けられているからだ。木のすぐ下を歩いて来る母の後ろに、蠍が迫っていた。

 母さん、逃げろ。母さん、母さん、母さん。

 「たっちゃん、起きて。夢だよ。起きて」

俺は脚を蹴り上げて飛び起きた。真っ暗闇の中で、誰かの息づかいがすぐ傍で聞こえ、俺は暴れた。俺の腕がそいつのどこかに当たった。

「たっちゃん、大丈夫だよ、夢だよ」

深雪の声だと気が付いた。

(つづく)

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