グリッチ (7)

 元々、この島に行こうと言い出したのは、のんぺいだったという。小田原の町道場を根城に町内の生き残りが寄り集まり、蠍と闘いながら暮らしていた頃、のんぺいが、港に行って漁師を仲間にし、漁船を手に入れ、蠍の居ない小島に逃れようと言い出した。その島には、基本的に生活できる設備がすべて整い、水源もある、とも言った。

「なんでそんなことを知っているかと聞くと、インターネットで読んだと言うんだな。当時はもうネットにはアクセスできなかったんだが、まだネットを使えた頃に読んだから知っていると言うし、グーグルマップから印刷した地図まで持ってたんだ」

 それで、のんぺいの言う通りに動いてみると、漁船を操れる漁師数人と出会い、当時まだ燃料が残っていた漁船二隻で、この島まで来る事ができた。のんぺいの言った通り、島にはできたてのホテルが建っており、整備された海水浴場が一つと、整備前の天然の砂浜が二つあり、井戸は島内の数カ所にあり、人間は一人も居なかった。隣の島には既に開墾された畑地があり、両島に、レジャー用の手漕ぎボートやカヌーが幾つも残されているという、贅沢なおまけつきだった。

 藍之島は元々有人島だったらしいが、昭和の時代に無人化し、民間企業が所有者となった後に転売され、その後、島全体がリゾート開発された。蠍発生当時は、リゾート開業間もなく、旅行者とホテルの従業員と拡張工事関係者しか島内には居なかったと思われる。蠍発生時に島に居た者は、家族の元に帰ろうと試みたか、あるいは、食糧が尽きたからか、皆、島を離れ、生きて再びこの島に戻ることはなかったらしい。小田原からの八十余名の避難者は、宿泊施設と水源とボート付きの無人島を手に入れたのだった。

「だからさ、深雪さんは、あの日、のんぺいに、箱根に行けばお前に会えると言われて、お前を迎えに行ったんじゃないかと俺は思う」

 俺はしばらく考えていた。

「でもそれなら、のんぺいは、どうしてそういう能力があると、誰にも言わないんだろう」

「さあな。でも深雪さんだって中学生の頃、瞬間移動ができるなんて誰にも言わなかったじゃないか」

「そうだな」

とは言ったものの、深雪自身が、こういう時代になるまで自分の能力を自分で知らなかったと言っていたから、のんぺいが特殊能力を隠す理由は、また違うのではないかと、俺は思った。

「深雪さんはお前の恩人だ。お前みたいな大男を箱根からここまで運ぶってのは、自殺行為だったんだぞ。マラソンを二回走って来たみたいなもんだ。だから、あんなに痩せこけて死にかかった。そこんとこ、わかってるか」

俺は正直に、

「いや、今までわかってなかった」

と答えた。深雪のあの痩せ方にはそういう理由があったと知り、俺はすこぶる恐縮した。

「まあ、いいさ。のんぺいと深雪さんはお前の腕を見込んだんだろ。本土で三年の戦闘経験というのは、凄い。腕が上がったろう」

さあ、としか言いようがなかった。三年、生き延びたのは、単に運の問題かもしれなかった。

「お前も怪我が治ったら、親衛隊に入って深雪さんと村に恩返しするんだぞ。お前の怪我の治療で、抗生物質や包帯や薬品やガーゼを沢山使っちまったから、また調達するものが増えたんだ。今、池田先生がリストを作っている」

「池田先生って誰だ」

望月は、呆れたと言うように、ため息をついた。

「お前なあ、自分の恩人の名前くらい知っておけ。お前を治療した医者に決まってるじゃないか」

ああそうか、と思い、あの医者にはまだ一言も礼を言っていなかったことに気が付いた。

「とにかくな、お前も親衛隊に入って、調達でも土方でも何でも真面目にやれ。そして、これから先の本土攻略の方法を一緒に考えよう。いつまでも深雪さん一人を働き蜂にして、島で俺たち隠居暮らしってわけにはいかないんだよ」

 望月が立ち上がったので、俺も松葉杖を突いて立ち上がった。

「当面の課題は、義足だ」

「義足?」

「のんぺいが二本脚で歩けるようにしたいんだ。あいつ、十四歳にして、一番強かった。蠍にはかすり傷一つやられなかった。深雪さんより全然強い。深雪さんは、逃げ足は早いが、攻撃力は、やっぱり女の細腕だ。のんぺいは、攻撃力が半端じゃないんだよ。お前に見せたかったよ、あいつの二刀流。あいつが杖を突いて片足で、島の中をうろうろ歩き回るしかできないなんて、宝の持ち腐れなんだよ」

 想像がつかなかった。縦に長いだけで、あまり筋肉も無いように見えたが、のんぺいはそんなに強いのか。師匠の息子だから、血統的には強くて当然だが、その上、深雪と同様に予知能力があるのなら、一体どんなことになるのだろう。

「池田先生と楢沢さんが義足を作る方法を研究してくれている」

「楢沢さん?」

「元製造業の楢沢さんて、今この島でも製造業なんだよ。頼めば何でも、意地でも、作ってくれるんだ。時間はかかるがな。義足ができて、お前とのんぺいが加われば、親衛隊も怖いものなしだ。いよいよ本土奪還だ」

 望月は俺の刀を持って病室まで送ってくれた後、道場に行くと言って居なくなった。このホテルには食堂の隣に、宴会場を改造した道場があり、午後には、剣道の稽古をしているという。

 あまりにも非現実的な展開に、俺はまたしても、パラレルワールドに滑って来てしまったに違いない、と思った。俺も道場に行って稽古を見たかったが、退院の許可が出た訳ではないのだからやめておけ、と望月に諭された。

 病室の一隅に洗面台が付いていて、鏡があった。自分の顔を見たのは随分久しぶりだった。俺ってこんな顔だったっけ、と思うほど、頬が角張り顎が突き出ていた。昔の面影は有るな、と自分で言うのも変だが、この顔を見て、深雪も師匠も望月も、俺が俺だとわかってくれたとは、不思議だ。しかも、今日は、鼻から下が極端に白く、笑うしかない顔になっていた。俺は、つるつるになった頬を自分で撫でて、苦笑した。

 もう横になる必要を感じなかった。この部屋には三床のベッドと薬品棚しかないと思っていたが、薬品棚の隣に小さな机があり、本が並んでいる。本の背表紙を見ようと、机に近づいた。半分以上が横文字の本だったが、俺は、外国語はさっぱりわからない。和書の方を見ると、救急医療、外傷の応急処置、感染症予防管理、生薬などの文字に並んで、「野戦医療」という文字が目に飛び込んで来た。

 俺はその本を手に取り、机上に開いた。分厚い本で、ハードカバーの表紙と裏表紙は角がすり切れ、装丁が崩れそうに緩んでいる。黄ばんだ頁に、俺の読めない旧漢字が所狭しと並んでいた。

「貴重な本ですから、触らないでください」

と言われて振り返ると、医者が戸口に立っていた。この医者は、いつも、眉間に薄い皺を寄せ、少し不快そうな顔をしている。

「あ、すいません」

俺が場所を譲ると、医者は本を閉じて元の場所に戻しながら、言った。

「第二次大戦に従軍した医師の残した論文集です。深雪さんが、呉市内の病院で偶然見つけて来てくれました。これがなければ、私もここでは薮医者です」

 俺は医者に礼の一つも言っていなかったことを思い出し、松葉杖を突いたまま可能な限り上体を折り、

「池田先生ですよね。この度は、ありがとうございました」

と言った。実は、礼の言い方だけは、言葉遣いの悪い俺でも心得ている。元々、親が剣道を習わせたのは、剣道を仕込みたかったからではなく、礼儀を躾けたかったからだった。道場というところは、武道もさることながら、挨拶と礼儀と掃除の仕方を教えてくれるところだった。

 池田先生は面食らったようだが、

「いや、私の仕事ですよ」

と言い、俺を促してベッドに座らせ、傷口を見る為に包帯を外した。消毒と抗生物質軟膏の処置をしてくれた後、新しいガーゼを傷口に当て、包帯は替えが無いのか、まだきれいだからか、同じものを巻いた。このように薬やガーゼや包帯があるという贅沢が俺にはまだ信じられなかった。俺の心を読んだかのように、医者は、

「これも皆、深雪さんが持って来てくれた備蓄ですからね」

と言った。

 包帯を巻き終わり、検温、脈拍など一通りの医療行為を黙って終わらせた池田先生は、道具を片付けると、俺の隣の、今朝まで深雪が使っていたベッドに腰を預け、俺に向き合った。何か話があるらしい。

(つづく)

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