グリッチ (8)
「あなたは深雪さんの何なんですか」
今度は俺の方が面食らった。そんなことを医者に聞かれて答えなければならない義理はないだろうと思ったが、聞くからには何か理由があるのだろうから、俺は素直に本当のことを言った。
「幼馴染みです」
「そうですか、で?」
医者はその先を聞きたいというように、待っている。深雪と俺がどういう関係か、というのは、幼馴染みの一言で納得してくれない場合、だらだらと話せば長く話すこともできるのだが、俺は何を求められているのかわからないまま、話し始めた。
「親同士が親友で、深雪のうちとは近所で、俺が八歳まで、うちは祖父母が次々倒れて大変だったんで、親がよく俺を深雪んちに預けてたんです。で、祖父母が次々と亡くなったんで、深雪んちに預かってもらう必要もなくなったんですけど、小田原の、深雪の親類で古物商だった人が亡くなったとかで、師匠がその家屋敷と商売の後を継ぐことになったらしく、俺は子どもだったから、よく知らないんですけど、なぜか俺の親も師匠と一緒に道場をやろうと思ったらしく、半年遅れくらいで小田原に引っ越して、俺の親は普通に勤め人なんですけど、道場では趣味で教えてて、それで、家族ぐるみの付き合いが続いて、俺は師匠にずっと剣道を習っていたし、で、高校を卒業したら俺は京都の大学に行きました。それが、何か」
医者は拍子抜けしたような顔をした。
「それだけですか」
それ以上の何を期待しているのだろうか。
「隠さずに話してもらいたいんです。これは島全体の死活問題に関わります」
俺は意味がわからず、先生の顔を見つめて先を待った。池田先生は、何か非常に言いにくいことがあるらしく、眉根を寄せて悩んでいたが、
「つまりその、深雪さんとあなたが」
と、そこで言い淀み、また言葉を探し、
「あなたが深雪さんと恋仲なら、私は医者として」
俺が笑い出したので、医者は言いやめた。
「誤解です。俺たち、何でもありませんから。ただの幼馴染みです」
池田先生は昨夕、俺たちが同じベッドで寝ていたのを知っているから、この誤解はわからなくはないとは言え、偉く話が飛躍したものだ。俺のことを深雪が「たっちゃん」などと呼ぶからだろうか、と思い、俺はその事情を説明した。
「俺が深雪んちで兄妹みたいに育ててもらってた頃って、深雪はこんなちっちゃかったんで、大人が俺をたっちゃんと呼ぶから深雪もたっちゃんと呼んでて、なんか、あいつだけ、そのままなんですよ」
なぜこんなことをこの医者に話しているのか、と我ながら、ばかばかしくなってきた。
「でも、なんでそれが、島の死活問題なんですか」
池田先生はまたしても、言いにくそうに苦渋の表情を浮かべ、言葉を探していた。話をするために、こんなに苦しそうな顔をして、蠍なんか出た日にはどんな顔をするのだろうと、俺は腹の中で笑った。
「あなたはまだ、ここのことがわかっていないから…この村ではですね…」
先生は溜息をついて言い淀み、俺は辛抱強く待った。先生はやっと決心したように、突然早口で言った。
「この島では、男女が好き合ったら、すぐ結婚してもらいます。なぜだと思いますか。確実に避妊する方法がないからです。ゴムは一応ありますけどね。ゴムの失敗率は三パーセント以上で、荻野式の失敗率はもっと高いんです」
そういう話になるのか、と俺は仰天した。この医者は俺に、深雪と恋仲なら、すぐ結婚しろと言いに来たのか。それは医者が言うべきことなのか。俺にはこの島の仕組みがさっぱりわからなかった。
だが、池田先生が言いたかったのは、実はそういうことではなかった。
「ですがね、深雪さんの場合は、結婚してもらっては困るのです。というか、妊娠されては困るんですよ。私たち全員が困るんです。ここの医療のレベルでは、妊娠による母体死亡率は恐らく、一割に達します」
そう言った医者の顔は、また苦渋に満ちていたが、それは言葉を探していたからではなかった。自分が口にしたことの卑しさに、自分で嫌気がさしたのだろう。
俺は言葉が見つからなかった。他の場所で、他の状況で、こんな話を聞いたら、
「てめえに関係ないことに口出すな、馬鹿野郎」
と、怒鳴りつけていたかもしれない。しかし、望月の話を聞いた後だから、俺には、この件がこの医者に大いに関係があるということを、これ以上の説明を聞かずに理解した。この不快感を、なんと表現したらいいだろう。
深雪は島民全員の所有物と化しているのだった。この医者は、深雪には決して手を出すなと、俺に釘を刺しに来たのだ。なぜなら、深雪が妊娠して思うように物資調達ができない身体になったら、全員が飢えるからだ。深雪が妊娠出産により死亡したら、村は遠からず全滅するからだ。深雪の子宮に起こることを、村全体が監視しているのだった。
嫌悪が俺の顔に出ていたのかもしれない。池田先生は少し怯えたような顔をしながら、しつこく先を続けた。
「ですが、私が言いたかったのはですね、もしどうしてもというなら、方法はあると言う事を…つまり、もしあなたがたが好き合っているならば…私は医者ですから。男女が妊娠をかなり確実に防げる自然な方法もあるということを…」
「もう、やめろよ、俺たちは、恋仲じゃないって言っただろう。もう出てってくれよ」
病室は俺の部屋ではないということをすっかり忘れて、俺はそう言った。
医者は立ち上がり、黙って戸口に向かって歩いて行ったが、そこで振り返り、
「もし、いつか、相談したくなったら、私に相談してください」
と言った。
医者の姿が見えなくなってから、てめえなんかに誰が相談するかよ、と俺は口の中で罵った。そして、特殊能力を持つがゆえに、普通に恋し結婚し妊娠する事は許されない、奴隷のような立場に、深雪が陥っているということが、俺の頭にしっかり刻まれた。
なんてことだ。望月の言った通りだ。深雪の犠牲の上に安穏と暮らしているわけには行かない。本土上陸、領土奪還だ。
しかし、それは不可能に近いこともわかっていた。
* * * * * * *
その後の四日間、俺と池田先生は、一日一度、病室で顔を合わせた。それが先生の仕事だから、俺の傷を診てくれる。非常に気まずい思いをしながら、俺は治療を受け、挨拶と礼だけは言ったが、他の話はしなかった。先生も必要以上のことは一言も言わなかった。
望月は毎朝、器用に天秤棒を担いで、バケツ二杯の井戸水を配達してくれた。それが、俺の飲料水と、洗面用水の割当だった。天秤棒とプラスチックのバケツという組み合わせがなんとも奇妙なのだが、バケツ二杯の水をこぼさず運ぶには、これが一番手っ取り早い、階段でも楽々登れるのだと、望月は言った。
病室には個室トイレがあり、水洗トイレの便器が付いているが、水道は涸れているので、トイレをトイレとして使用することはできず、誤って使用することがないように、トイレの蓋が便座に接着されていた。蓋のしまった便器に座って身体を拭くことはできる。用を足すには屋外の便所に行かなければならないが、俺もどうせ一日中寝ているつもりはなかったから、不自由には感じなかった。樹上生活に比べたら、ここの生活は何一つ不自由ではない。いつどこから蠍が迫って来るか、毎分毎秒、周囲を見回して警戒する必要がないのだ。この楽な生活を不自由などと言ったら罰が当たる。
やがて、左脚に体重をある程度載せられるようになり、松葉杖に頼りながらも、両足を地に着けて歩き始めた。怪我をしてから八日目に、抜糸してもらい、「退院」することになった。
その頃までには、池田先生の俺を見る目つきが、少し変わった。深雪が一度も見舞いに来なかったからだろう。恋仲ではないということを納得したのかもしれなかった。
抜糸しながら、先生は、
「先日言ったことですが」
と切り出した。俺の顔が険悪になったのか、先生は、
「ちょっと我慢して聞いてください」
と断ってから、意外なことを言い出した。
「あなたがたが何でもない仲だというのは、私にはわかりましたがね。そのことを村全体に知らしめる必要があります。あなたのためにね」
「俺のため?」
「はい。あなたと深雪さんの仲を勘ぐっている人達が居ますから、下手するとあなたの身が危ないんです」
俺にはすぐには意味が呑み込めなかった。先生は抜糸痕からの少量の出血を、消毒薬を浸み込ませた脱脂綿で拭き取る間、しばらく黙った。脱脂綿を捨ててピンセットを横に置き、先生は先を続けた。
「人間はね、自分と自分の家族の命を守らなければならない時、考えられない悪行をすることがあるんです。あなたと深雪さんの仲は、この島の死活問題だと言いましたよね」
そう言って、先生は俺の目をじっと見つめた。
「私の仕事は、人の命を守ることですからね」
先生はまた視線を手許に戻し、俺の腿の傷跡に膏薬を塗り、前よりも少量のガーゼを載せ、テープで貼った。
「立ってみてください」
俺は立ち上がり、左脚に体重を載せてみた。痛むのではないが、力が入らなかった。
「痛みはありませんか」
「いや、でも、なんかこう…」
痛くはないが普通でもない、ということをどう表現してよいかわからなかった。
「筋繊維が断ち切られたわけですから、元に戻るまで、しばらくかかります。抜糸痕が塞がるまで、海水浴は最低あと一週間控えてください。海水で感染したら、私にはあなたを救えません。無理をすると傷が開きますから、自然に歩けるようになるまで杖を使ってください。でも、筋肉は使わなければ益々萎えますから、疲れすぎない範囲内で歩いてください。使うことによって筋肉は自己修復します。使わなければ修復作業も進みません。わかりますか」
俺は頷いた後、唐突に聞いた。
「俺は命を狙われてるんですか」
「いえ、そうとはっきり決まったわけではありません。しかし、そういうことになったとしたら、予想の範囲内だということです。この村には、どうしても深雪さんに頼らないと、幼い子どもの命を守れない親達が居ます。私が危惧しているのは、そのことですよ。深雪さんも年頃ですが、この島の若い者が誰も近寄らないのは、それなりのわけがあるんです。私にとっては、あなたの命も、子ども達の命も、その親達の命も、深雪さんの命も、すべて、命です。すべて守らなければなりません」
先生は、溜め息をついて立ち上がり、道具を片付け始めた。この先生の人柄を、俺は誤解していたのかもしれなかった。俺はまた、丁寧にお辞儀をし、
「先生、お世話になりました」
と言った。先生は軽く会釈し、鞄を持って出て行った。
(つづく)