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私が餃子を好きになった日

ギョーザというよりはチャオズと読んでしまうくらいに、私は餃子という食べ物があまり好きではなかった。
嫌いというわけでもないので、好きではないことに理由はきっとない。
今でこそなんでも食べる私だが、好き嫌いがかなり多い面倒な子供だった。今でこそ全身胃袋だが子供のころは小食だったため、食事担当の祖母はさぞや気を揉んだことだろう。
そう、我が家の食事担当は祖母であった。そのためか、餃子が食卓に上ることはそう多くはなかった。祖母のメニューを色々思い出せる中で、餃子の事はまったく浮かんでこない。作っていたのだろうか。覚えているのはスーパーの餃子。あの白いトレーに入ってラップもかけて、しかもそのままレンジでチンするからラベルのインクが染み出て真っ黒になっている餃子。正直あまりおいしくなかった。誤解なきよう記しておくが、最近のスーパーの総菜は本当に美味しい。コンビニ弁当も冷凍食品もマジかよってくらい美味しい。だが当時のそのラベル真っ黒ラップびよびよの餃子は、しみじみ悲しくなるような美味しくなさであった。持論だが、生きていて「まずい」ものに出会うことはそうない。だいたい美味しいかあまり美味しくないかだ。その中であのスーパーインク黒びよびよ餃子は、そこそこテンションの下がる食べ物であった。
そして今となっては信じられない話だが、私は餃子でごはんが食べられなかった。なぜだろう?皮?餃子はおかずにならなかったのだ。というのも私は、調味料をかけるのがあまり好きではない子供だった。コロッケもとんかつも目玉焼きもそのまま食べる。タレも何もかけずに食べるびよびよ餃子は、端的に言うと味があまりない。ああ、味気ないというのはこういうものかと、幼心にしみじみ思ったものである。

そんな私が餃子大好きになったターニングポイント。それは某ラーメン屋の餃子だった。
かつて愛知県にあったラーメン屋さんで、讃岐うどんの名店の息子さんが作るラーメンは絶品であった。人気絶頂の最中の閉店で涙したことは記憶に新しい。とても美味しいラーメンだった。が、ここで私が必ず頼んでいたのが餃子である。
タレなしで食べられる、と記されている餃子に興味を持ち珍しく注文してみたが、目が覚めるほど美味しかった。ジューシーで味わい深く、いくらでもご飯が食べられる。ご飯がなくてもそれはそれで美味しい。
餃子のイメージがここで完全に払拭された。美味しいラーメン屋の餃子はもしや美味しいのではないか。だって美味しいラーメンを作る人が作っているんだから。
その後他店でも餃子を注文することが増えていき、気づくと立派な餃子好きになっていた。これは目覚めである。

しかし今、私はやはりあまり餃子を買うことがない。前述した通り最近はスーパーもコンビニも冷凍食品もとっても美味しいのだが、餃子を買わない。
なぜか。
うちの母親が作る餃子が、なんととてつもなく美味しいのだ。
特徴があるわけではない。変わったことをしているわけでもない。なのになぜかものすごく美味しい。ただの普通の餃子だが、普通の餃子のMAX。先週のマツコの知らない世界でマツコ氏が言っていた言葉を借りると「うちのババアのコンディションが一番良かった日」のやつが出てくる。
なんてことだ。灯台下暗しとはこのことじゃないか。
私も一時期餃子つくりにハマり、大葉にくるんでみたりエビをいれてみたり色々試したが、結論うちの母親の普通の餃子が一番美味しい。
こんな物語のようなことがあるのだろうか。おふくろの味が一番だなんて。
私はかつて母とは雄山と山岡くらい不仲だったが(私が雄山ね)、それでもこの餃子だけは不動の一位だった。
「普通が一番。」
アレンジ料理も変わったメニューもなんでも大好きな私だが、餃子というとこの言葉が胸に宿る。おふくろ味が一番、ではないところが、和解しても雄山は雄山で山岡は山岡なのであった。


#餃子がすき

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