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サイドコア展『コンクリート・プラネット』

サイドコア展|コンクリート・プラネット
会期:2024年8月12日ー12月8日
会場:ワタリウム美術館+屋上
ワタリウム美術館|WATARI-UM

都市の暗部を開拓し、小さなアクションを積み重ね、都市の風景にノイズをフィードバックしていく。そうした一連の行為は、東京の都市システムに対して個人という小さな単位のビジョンを介入させていくことですが、同時に国境や時代を超えたカルチャー・アクティビズムの連鎖反応に触れ、予想できない誰かと繋がりを作り出す方法であると考えています。

SIDE CORE《展示会スクリプトより引用》
『コンピューターとブルドーザーの為の時間』(2024)
『untitled』(2024)

 美術館が、サイドコアにジャックされていた。
まさに「ジャック」という言葉がぴったりくる。それは美術館に作品が展示されているというよりは、美術館が作品として機能しているようだった。
 コンクリートが剥き出しになっている壁や、年季を感じさせる天井。トイレでさえなんだかクールな佇まいをしていた。(ニューヨークのトイレみたいだと思った。ウォッシュレットではない冷たい便座に水切れの悪い蛇口。)

 現在、ワタリウム美術館は改装工事中なのですが、その工期さえもこの展覧会のために仕組んだのでは?と疑ってしまうくらい、作品の世界観とマッチしていた。

▽展覧会感想

 「この人たちは、都市を、人工物を、肯定しているんだ。」
 作品からそういう温度が伝わってきて、それが新鮮でいいなと思った。
 都市を題材にした現代アートは、大抵自然保護や温暖化問題が取り上げられて、都市の問題点ばかりにフォーカスが当たることの多い印象だったから。

 彼らの作品は、都市の端々を切り取り、そこに音、彩、物語をつけて、ふーっと大切な火種に息を吹きかけるように、都市の命の灯を燃え上がらせようとしているみたいに見えた。

『unnamed road photographs』(2024)

 チカチカと映ったり消えたりを繰り返す都市の写真たち。
それはまるで全貌を窺い知ることのできない大きな生き物の身体の一部、例えば目や歯や尻尾だけがそれぞれ映りこんでいる写真をバラバラに見せられている気分だ。
 写真はもちろん過去のもので、もう二度と同じ姿を見ることはできないのに、この写真はこれからもずっと残り続けるんだ。これを見た人の、どこか心の奥底に。
 その無数の欠片が都市のイメージとなっていき、「〇〇っぽさ」ができていく。東京っぽい。ストリートっぽい。港区っぽい。
 その「〇〇っぽさ」は綿毛のように、今も空中をふわふわ漂っている気がする。つかめない都市。虚構の都市。
 
 分かるようでいて、分からないもの。つかめるようでいて、絶対につかめないもの。
 都市とは、一体何なのだろうか?

▽私たちの森

 一つ、思い出したことがある。
 昔、海外駐在時代に深夜到着のフライト便でニューヨークへ帰ってきたことがあった。
 クイーンズ州にあるJFK国際空港からUBERで、寝静まった街をひた走った。ようやくマンハッタンが見えてきた頃、次第に大きく迫ってくる真っ黒なビル群を見ながら、まるで森のようだと感じた。ビルが大きな木で、都市が森で、私たち人間はそこに間借りをしている動物なのだと。

 人工物が「自然」に見えただなんて、おかしなことかもしれない。
 でも、アナグマは土に穴を掘って巣をつくるし、キツツキは木に穴を空けて子育てをする。彼らは有害ガスは出さないし、鉄筋コンクリートも使わないけれど、自然を傷つけて社会を形成している点では、人間と同じだ。
 だから、人間が動物である以上は、いくら建物が鉄筋コンクリートでできていようとも、それは「自然」と呼べるのだと思う。
 都市とは、私たちの森だ。

▽都市の自然と不自然

  もう一つ、昔からの疑問を思い出した。
 電車に乗っている時、人の話し声や車内のアナウンス音、ガタンゴトンと電車が動く音は全然気にならないのに、どうして隣の人の小さなイヤホンの音漏れがこうもストレスに感じるのだろう?車内でおもむろに携帯を取り出し話し出す人に、こうもイライラしてしまうのはどうしてだろう?
 はたと気付いたのは、それが自分のルールの外の出来事だからなんだということ。つまり、音漏れや通話は、本来車内で聞こえるべきではない音であり、私にとっては不自然な出来事だったのだ。

 「自然」というと、一般的には木や植物などの非人工物のことを指すけれど、実際には、人工物の中にも自分にとっての「自然」があり、「不自然」がある。
 そして、何が自然で不自然なのかは、個人がこれまで培ってきた経験やルール、築いてきた社会に基づいているのだと思う。
 必ずしも全員で共有しているわけではない。その感覚はあくまで個人のものなのだ。

▽自然をデザインする

 例えば、展覧会の作品のモチーフとしても繰り返し登場した壁画で考えてみる。

EVERYDAY HOLIDAY SQUAD『UNKNOWN』(2015年)『SIDE CORE - TOKYO WALKMAN』より / 渋谷の地下道を探検し大きなネズミを描いた映像

地下を舞台とした初めてのプロジェクト。当時、メンバーがヨーロッパ旅行から帰国した直後で、あらゆる場所で壁画を描けるヨーロッパの環境に感化され、東京でこの絵を描く場所を求めて暗渠を探索した記録。(後略)

『unknown』スクリプトより

  スクリプトには、サイドコアのメンバーがあらゆる場所で壁画を描けるヨーロッパの環境に感化されたとあったが、それが無許可で描くグラフィティにせよ、上記作品のように許可を得た上で制作するミューラルにせよ、外国人の間では文化として受け入れられている面が大きいかもしれない。
 でも日本人には、そこまで自然なこととして浸透していないように思える。
 もし受け入れている人なら、グラフィティやミューラルを見て、面白さや美しさを感じるかもしれないが、自身のルール範囲外の人にとっては、それらは不自然な人工物に映るだろう。というか、目にも入らないかもしれない。

 結局、私たちは都市に住んでいても、自然の中にいるのだ。
 自身に合う自然をデザインして、そこからはみ出さないように生きている。だから、魚が水から出てこないように、自分にとって不自然なことや場所には近寄らないし、見ようとしない。そうして個々人の社会はさらにその特性を強化してゆく。
 私たちは都市という森に住む動物だ。どこに生息するかは自分次第だけれど。
 でもやっぱり、似た者同士が出会いやすいんだろうな。
 キツツキとアナグマが、友達にはならないように。



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百合絵ッセイ@主婦ふふ♡
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