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海外のアングラ音楽から見る”セリカ・サンプリング”

1⃣はじめに

内田樹の「日本辺境論」をご存じだろうか。日本とは何か、日本人とは何かを、主語を大きくしながら体系づけた傑作である。本書によれば、日本人は周りを見渡しながらキョロキョロと、〈ここにはない何か〉を探しているという。言われてみればそうである。保守革新に関わらず、どんな時でも「海外では~」という文言がかなりの説得力を持つ。

今回の話はこの理論に対するアンチテーゼではない。単なる疑問の一つ、果たしてそれは日本だけなのか、ということだ。
長々と書く気はないが、例えば西遊記によれば玄奘三蔵一行は天竺を目指して未知の領域を練り歩いた。また、北の騎馬民族が南へ南へ行くものだから21,196 kmもの長さの城ができた。西洋もその域を出ない。マルコ・ポーロによる黄金の国ジパング、インドを目指した大航海時代。バベルの塔の「完全言語(リンガ・ペルフェクトゥス)」はヘブライ語ではなく、遠く東中国にあるのではないかと言われることもあった。

その多くは宗教の色を帯びているものの、東へ東へと〈ここにはない何か〉を追い求めるという意味では同じストーリに生きているのかもしれない。


ヨーロッパではイースト、オリエント、アジアといった概念が「ヨーロッパ以外のもの」に対する概念として形成される」

wikipediaより

希望的観測ではあるが、このアジアやオリエントといった概念の中にも、差別意識とは別に何かしらロマンが存在していたのではないかと邪推する。自分自身留学していて感じることだが、商品名やサイン、タトゥーなどすべてに日本語を当てたがる種の人がいる。同じアジア圏でも、アルメニアからスターン、タイやベトナム、モンゴルに対しては見られない現象である。K-popやChinese literatureとして極東三国の言語を見かけることはあるが、日本語は別の何かである。今回の本筋ではないので省略するが、我々が当たり前の顔をして生活しているこの空間が、世界から見たら異質なのは言うまでもない。前置きが長くなったが、今回の話はその一端である。

余談だが、「キョロキョロしすぎて日本論を語りだすまで至ったのは日本人だけらしいけど、そっちはどう?」とポーランド人の友人に質問した。ポーランド人はそこに気をとめないらしく、本当らしい。

2⃣サンプリングとは

説明が面倒臭いので、これを読んでほしい。

音楽用語で、ある録音された楽曲や音源の一部を切り出し、それを新たな楽曲の一部として用いる手法を指す。また録音物に限らず、環境音をサンプラーと呼ばれる機器によって録音、加工する行為もこれに含まれる。サンプリングは、1980年代以降ヒップホップやクラブ・ミュージックなどにおいて多用されるようになる。

「現代美術用語辞典Ver2.0- アートスケープ」より

読んで字のごとく、あらゆる音をサンプルとして取り出し、自らの曲に組み込んでいくことをサンプリングという。例えば以下のようなサンプリングは、引用の後者にあたるサンプリングだ。

また、前者にあたるサンプリングはこのように他者の曲の一部を用いて別の作品に転換する。いわばリサイクルのようなものだ。

近年、このサンプリングの視線の先に日本という存在がちらつくようになった。歌謡曲からアニメ、アイドルに至るまで幅広く利用されている。例えばこれだ。

このように日本の名もない曲たちが海外ラップアーティストによってサンプリングされ、再び脚光を浴びている。日本にまで足を運んでレコード屋をディグったのか、或いはディグられた物が出回ったのか審議の程は分からない。しかしこれをまとめた人の労力と言ったらすさまじい・・・。

このブログにもあるように、海外で開催されたレコードフェスにも日本ブース、セクションが登場するほど日本LPがジャンルとして確立されていることがわかる。ヒップホップに限らず、どうして根本的に異なる言語である日本語LPをサンプリング先として選ぶに至ったのだろうか?


3⃣日本LPはなぜ耳目を集めたか

nujabesとサムライチャンプルー


動画のコメント欄を見てもらえばわかる通り、英語コメントが大半を占めており、初見だとnujabesが日本人だと気づけないだろう。Lofiヒップホップの生みの親であり、日本に目線を向けさせる大きな要因である。自身もjazzからサンプリングを行って曲を作っており、日本ヒップホップの火付け役とも目される。その発端はサムライチャンプルーというアニメにnujabesが楽曲提供をしたことから始まる。(もちろんこの前からnujabesは活動していた。)サムライチャンプルーについて知りたい人はこちらを。

カウボーイビバップの監督でもある渡辺氏の作品であるから、海外人気が出てもなんら不思議ではない。つまり、日本文化への目線はひいてはLofiヒップホップに向けられる視線は日本とアニメが同義だった。図らずもサムライ、江戸時代と最も日本的な設定だったことも文化受容という観点から大きな意味を果たしていると言える。このことから、nujabesとサムライチャンプルーという2つの要素は、サンプリング文化を持つリスナーが日本LPに目を向けた大きな理由の一つであると考えられる。


海外版日本人



また、1⃣の日本論の文脈上で語るとすれば、これは海外型の〈ここにはない何か〉であると考える。この世界にはそれぞれストーリーがあって、欧州または米国もその域を出ない。いやいやアメリカは違うだろと思うかもしれないが、面白いことに一部のアメリカ人は欧州に一種の親近感を抱いているし、多くの白人アメリカ人のルーツは欧州にあるのも事実だ。
つまり、オリエントにこそ何か素晴らしいものがあって、それを追い求めようというストーリーが今でも残っているのではないか?というのがこの話の大筋である。この文脈から、殊音楽分野における日本文化に関連したサンプリング行為に勝手に命名したい。オリエントにちなみ、ラテン語で「極東」を意味する「セリカ(Serika)」を取り、

”セリカ・サンプリング”

というのはいかがだろうか。当時の第一世界にとっての極東は中国であるが、そこには目をつむっていただきたい。現代の極東は日本である。また、セリカには天上、宇宙といった意味もある。〈ここにはない何か〉を表現するにもうってつけだ。図らずも日本の女性名のように感じられるのも偶然でもないだろう。


4⃣新しいサンプリングの手法と”セリカ・サンプリング”

近頃、別のジャンル(ここでは主にエモ・ミッドウェストエモ・シューゲイザー)において別の手法によるサンプリングが散見され始めた。Lofiヒップホップで見られるような従来型のサンプリング方法が変わりつつある。例を見ていこう。

バンド名から分かるように、彼らはアニメ「フリクリ」のファンであることは明白だ。この曲以外でもフリクリの作中のセリフを挿入しているものがある。曲名は任天堂の人気ゲーム「スーパーマリオ64」であることは確かで、作曲者はかなりのゲームフリークだと考えられる。この曲では64の音声を再生してから曲が始まる。これも一種のサンプリングで、形を変えたリスペクトであると言えるだろう。天下の法務部を有する任天堂に対してここまでできる度胸をほめたいところだ。曲の直前に一節セリフを入れる手法はもともと(私の狭い認識の中では)ミッドウェストエモ・リバイバル系のバンドの中でよくみられるものだった。

ミッドウェストエモ特有のミックステープ文化(インターネットの時代にファンが好きな曲を混ぜあわせ、ミックステープと銘打った動画で紹介するという文化)では、高確率でやはりどこからか持ってきたセリフから始まる。



この新しいサンプリング手法とオリエント志向が折り重なった結果、また新しい形の「セリカ・サンプリング」として表れたのかもしれない。



こうした手法はシューゲイザーにもみられる。韓国発のシューゲイザープロジェクト「Parannoul」はまさに”そのもの”で、日本語のセリフから音楽が始まる。

彼は正体を隠して個人で音源を制作しているとインタビューで明言している。単身プロジェクトであることも影響しているのか、彼の作品の中では特に影響を受けたであろう映画「リリイ・シュシュのすべて」とアニメ「NHKへようこそ!」などのコンテンツ音源で溢れている。あまりにもサンプルが多く、それら全てを探し当てた猛者も出てきた。

また、サンプリングから話はズレるが、日本文化があからさまに影響しているアングラのバンドを最近よく目にする。karate、camping in alaskaのDragon Ball Z Budoukai tenkaichi 4、Origami Angel、sad cowboy emoji、など、おそらく無意識と意識の間でただ名前に日本語が使われているもの。中でもorigami angelはあからさまにDS版ポケモンの影響を受けている。

あるいはit looks sadのkaijuという名のシングル名に見られるように、ただタイトルに日本語を使っているだけのもの。

また、これもサンプリングの一つと言えるかは微妙だが、16bitを意識したエモバンドhey,llyの最新のアルバムでは、イントロ曲内1分42秒に渡って自作スクリプトの日本語ラジオを流している。


これらは日本文化の影響ではなく、ただ単にネット世代のノスタルジーの矛先として16bitものやインターネット黎明期に向いているだけでそこに日本が垣間見えるだけだということもできるかもしれない。実際ポケモンに影響を受けてポケモンだけに言及しているバンドもある。


あるいは英語で歌えばカッコいいと思っている日本バンドと同じなのかもしれない。しかし後者に関して言えば、この現象とは似て非なると考える。なぜならこうした現象が「文化の受容」であるのに対して、日本の英語バンドの場合は「言語を使用」しているに過ぎないからだ。日本人に対してカッコいいと思われればそれでいい。その目的の先に英語圏文化を理解したいとか、英語圏文化に影響されたとか(たまに英詩バンドに影響されたものはあるが)全くない。


~閑話休題~🐈


総括すると、エモやシューゲイザーが、形を変えたサンプリングがオリエンタリズムを帯び、一種のセリカ・サンプリングとなっていったのではないか。というのが今回のお話だ。もちろんそれ以前、意外にも曲の直前に別の音声をかける手法はいくつも知っているが、パラノールのように曲中にも組み合わせていく手法はあまり見たことが無い。新しい音楽シーンに欠かせない要素であるものの、言及されていることが少なかったためこの記事を書いている。

5⃣考察

ここから先はただの持論を整理するためだけのものであって、読み飛ばしてもらって構わない。

ここまで海外アングラによる日本文化の受容を見てきたが、もちろん日本アングラにも海外文化(ここではエモリバイバル)の受容が起きている。最近はどこが中心とかは言えないが一つ例を挙げると、Anorak!の出演するライブのタイトルには文化受容を掲げるサインがある。
PLEASEBESURPERNICEはcamping in alaskaの伝説のアルバム「please be nice」から取ってきているものだ。Anorak、本当にいいので聴いてほしい。


かくして、世界アングラから日本アングラ、vice versaの関係が出来上がっていく。主な交流がアメリカと日本であり、自分は勝手に環太平洋交流とか言っている(たまに東南アジアでも新しいマスロックシーンが生まれたりするから)。つまりこうした現象はアングラ同士の外交なのだ。このようなアングラ音楽では、MVなどの映像に金をかけておらず、音だけで勝負している草の根文化だ。だからこそ音源サンプリングという手法に至ったように私には感じられてならない。

海外ネットユーザーにとって、日本の世間評価など関係がない。その意味でよりピュアで本物の芸術が発見される土壌であるといえる。個人の趣向が行きつく先に日本があり、だからこそ日本人の知らないLPがサンプリングされていく。もちろんネットにも世間は存在していて、Redditというジャンルごとにスレッドをたてられるサイトでは度々日本アングラ文化の評判を書き込む連中がいる。あるいはyoutubeのコメント欄から同じ趣味趣向を共有する人間の好きなバンドを辿ったりする。ネットもまた例にもれず、世間の一員としてアングラアーティストを、音楽それ自体より音楽に対するアティチュード、人生観を計っているのかもしれない。

こうした背景を見てみると、いわゆる海外アングラ受けがいいアニメや漫画も理解できるようになってくる。その大半は商業主義、広告主導の資本主義からは程遠いものだったりする。例えば海外ネットアングラにおいて絶大な人気を誇るフリクリは、地上波ではなくOVA作品だ。監督自身、ハチャメチャで好きしかやらないと公言しており、まさに草の根といったところだ。浅野いにお先生のおやすみプンプンなんかも、お茶の間では放送できないようなダークリアリティマンガだが、海外でじわじわと人気を博している。

どの国においても、ネット世界では本流、潮流など関係ない匿名個人の生活圏だった。日本では逆張りである可能性があるが、ネット世界ではより無垢な評価基準で文化受容が発生していて、むしろ本当の意味での文化外交を果たしているのだ。その結果として、このような相互羨望の化学反応が音楽界隈に発生していった。しかしこれはネット黎明期を経験した者だけに言えることかもしれない。最近では表層だけさらってきたかのような日本文化受容も起きている。悪意はないが、ワンピース、進撃の巨人、NARUTOなどしか見ていないのに日本人の真似事をして自己商人欲求を満たすかなりキツめの人種も存在する(気になる人はWeabooという言葉を検索してみてほしい)。

6⃣まとめ

「ロックは死んだ。しかし日本でかろうじて生きている。」「エモはなぜ西洋ではなく日本に行ったか」といった話を何度も目にしてきた。(個人的には日本が一番死んでいるが)自分の住む国で死んだロックを追い求めて他国からディグる行為の繰り返しで、たまたま今日本にその潮流が来ているのか。はたまたカルチャーショックに慣れて飽きた外国人がホモソーシャルのケミストリーを求めて極東に行きついたのか。結局どこにいる人も〈ここにはない何か〉を求めてほっつきまわっている点において共通しているのかもしれない。その延長線上にサンプリングの話があり、その目線の先に日本がある。

ここで念を押したいのは、「日本がすごい」といった安っぽいナショナリズムをおっぴろげたいわけじゃない。経済発展とゴテゴテの資本主義から脱した後で、草の根ポスト・コンテンポラリー文化がしっかり意味をなしているということだ。何も世界何位の経済だとかクールジャパンとかそういうものじゃなく、「自分の好きなものを追い求めていっても結局はわかってくれる人が世界のどこかにいるよ」という熱いメッセージだ。これをどこか心の片隅に留めておいてほしい。

読んでくれてありがとうございます。ここで見落とされているものや、異論等がある人は教えてください。ハートとかコメントくれると嬉しいです。

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