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盆踊り歌詞の意味をどのように感受しているかはどうでしょう

「盆オドラー」という呼称が、私個人のワードセンスでバッドセンスに感じられ苦手だ。けれど言葉はアレンジが加わり再生産されるもの。SNSを見ると「盆オドラー」→「オドラー」→「ラー」→ 「ラー様」と転じているのを見かける。私は「オドラー」「ラー」まで好きじゃないが、「ラー様」はけっこう好き。元がダサくともアレンジでセンスが高まる改良と工夫の醍醐味だ。

「盆オドラー」という呼称の好き嫌いを思案したところで今、私が思索しているのは盆踊り歌詞のワードセンスについて。気になる。

盆踊り定番となる曲には何かが共通するのだろうか、色々な方面から探ってみている。楽曲の音楽構造や踊りの振付構造などもちろんあるけれど、歌も盆踊りの要だ。インストで踊る文化は盆踊りにほとんどない。口説き歌の頃から、いやもっと昔からおそらく歌と踊りが不可分だろう。

ワードセンスとは、言葉の意味のみに対する批評でなく、響きや音色やリズムや比喩や、印象や体感で感受するところの言語要素の良し悪しだ。
ワードセンスを掘り下げると修辞や詩歌や形式の話となりがちで複雑だけれども、ワードセンスの構成要素として意味も重要要素ではある。

現況での東海地方の盆踊りを見ると、「炭坑節」「かわさき」「春駒」「名古屋ばやし」「大名古屋音頭」「河内おとこ節」「ドラえもん音頭」「踊るポンポコリン」「およげ鯛焼きくん」など、盆踊りスタンダードに残る楽曲のどれもが、歌詞のワードセンスが抜群に冴えている。ちなみに「踊るポンポコリン」はさくらももこ本人の作詞、「ドラえもん音頭」は藤子不二雄本人の作詞だったりする。
好み趣向はもちろん人それぞれにあるだろうが、盆踊り曲として比較的新し目の「明日があるさ」「マツケンサンバ」「恋するフォーチュンクッキー」などもワードセンスの冴えを含有するからこその残留と見て取れる。

さてそもそも「炭坑節」「かわさき」「春駒」「八木節」「相馬盆唄」「花傘音頭」「東京音頭」「津軽甚句」などなどの愛されるスタンダード盆踊り曲は、どれもがワードセンスの例示であり見本である。その時々それぞれの圏域のワードセンスが、近代に西洋音楽プロが介入し、こねくり回す過程を経たものだ。

江州河内については、ワードセンスをどこまで極めるかを現在進行でプロの音頭取りたちが突き詰めており、ワードに対する敏感の度合いはちょっと他とは別次元と言えよう。祭文や説教や口説きや語り物や万歳や浪花節やその他無限のサンプリング元を持ち、アドリブ芸が多彩。
江州河内は、中上健次や町田康が引用したりモチーフにしたりもしている。

さて、盆踊りの踊り手は、歌詞の意味は受け止めないが、ワードセンスの冴えには敏感に感受しているように見える。ワードセンスの強度が高ければ踊り手は躍動しやすい。言語の意味とセンスは不可分に絡み合うものだけど、踊り手はワードセンスに対し反応するのであって、意味を素直に感受するのでない。

先日の「一宮七夕まつり」では「およげたいやきくん」が大音量で流れたが、あれから私の脳内で子門真人の声色が離れずずっと鳴っている。
一宮の踊り好きは、「およげたいやきくん」をポイントポイントで飛び跳ねるアレンジを加えていたり、この曲は弾け楽しむ踊り曲となっている。しかし歌を反芻するほど、社会から逸脱できない苦しみと挫折を痛感する歌詞内容である。
こんな、現実の苦しみを歌い上げたブルースを、盆踊りでは無数の大人が快楽的に踊り跳ねる。意味で感受をしてない証左だ。いや、やはり意味での感受をしてはいるが、意味から立ち上がる情動は逆転するのだ。

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