あなたの手を取って
夫と旅行に行った。夜、ホテルの近くの居酒屋に行く。
どこにでもありそうな居酒屋だけど、自分たちの住む地域には無いチェーン店。
オレンジ色の電灯と焦げ茶色の木目。すだれで仕切られたたくさんの個室から聞こえる声は、会話こそ聞き取れないが楽しそうな雰囲気が伝わって、店内を賑やかな空気にしている。
個室のひとつに案内され、ノンアルコールの酎ハイ風飲料を注文する。
考えたら、長女が生まれてから、夫と2人で旅行したことが無かった。
そのことを夫に言うと、あれ、そう?と首をかしげる。○○がお腹にいるときに行ったあそこ以来?うん、そうそう。それ以来。
長女は22才になる。だから、22年以上ぶりの、2人きりの旅行。
22年だって。すごいな。そういえばなんかさ、金婚式とかいろいろあるじゃん。自分たちって何婚式まで行ったのかな?
スマホで調べる。2人とも眼鏡を上げて画面を覗く。
来月で26年になる・・・25年目が銀婚式だって!
なんと、私たちは銀婚式を過ぎていた。
お互いをまじまじと見る。
痛風になり食事制限をしている、痩せた夫の顔。
白髪を染めているのがまるわかりの、私の貧弱な髪の毛。
銀婚式を迎えた夫婦って、お年寄りだと思ってたよね。
私たち、歳を重ねたねえ。
2人して、笑ってしまった。
飲み物が来た。運んできてくれた女の子は、長女と同じぐらいの歳に見えた。
私たちは、乾杯をした。
居酒屋を出て、ホテルまで歩く。
手をつないでいい?と聞く。夫が頷く。
県外だからね。誰も知っている人がいないからでしょ。うん。
夫の指が、くいくいっと動く。おいで、と言っているように。私は夫の手を取る。
乾いた、かさかさの手。夫と私の。
下弦の月が空高くのぼっている。
翌日は、屋形船に乗った。
渡し板がぐらぐら揺れる。夫が手を差し出す。
私は足首がしっかり使えなくて、手すりなしでは階段もうまく降りられない。
そんなとき、私が立ち止まり、夫が2歩先に行って、手を差し出す。
それはとても自然で、流れるようにそうなる。
ひとりきりのとき、わたしは両腕を少し広げて、昔のぶりっこみたいなポーズでバランスを取って、足下を凝視しながら進む。
夫がいるときは、夫の手を取り、ありがとう、と言いながら進む。
屋形船に乗り、川面をすべる風を受ける。
ゆっくりと進む船。石垣の間に咲く、おしろい花。9月のお昼前の、弱い陽の光。湿った風がしずかに吹き、聞こえるのは船のモーター音だけ。
十割そばを2人で食べた。
広い店内に、客はおじいさんが2人だけ。
平日の昼間。檜の香りがする店内。見上げると、美しい梁がそのまま見えた。
おそばは透明な泡のような舌触りで、とてもおいしかった。身体が澄んでいくみたいだった。
やっと手に入れた、この豊かな時間。
これからこの世を去るまで、この幸せな時間を、なるべく長く味わいたいね。
そんな話をした。
お店を出て、夫の手を取り、2人で階段を降りる。
25年。私たちは、初老の夫婦になった。
あなたといることができて、とても幸せですよ。そう言ったら、夫はうん、と微笑んだ。