眠りの中のお茶
夢の中で、わたしは中学生だった。
体操服で、あえぎながら階段を登っていた。
クリーム色の、錆びた鉄の階段。大きな倉庫の中のようで、窓があるのでうっすら明るい。
息が苦しい。夢の中のわたしは体力がなく、他の子たちのように長く走れなかった。それで先生に叱られて、マラソン大会に出られなくなった。
倉庫を抜けて、階段に座り込む。階段がふたつに割れて、ゆっくりと回転しながら滑り落ちていく。わたしは階段ごと、なされるがままに落ちていき、ああもうだめだ・・・と感じている。
夢に、起きているときの意識が、ふっと入り込むときがある。夢を見ながら「ああこれは夢だ」と思ったりする、あの感じ。
そのときも、そんな感じだった。わたしは無呼吸症候群の気があるので、「胸が苦しいのは無呼吸だったからだ。身体を横に向ければ大丈夫」と思った。(そしておそらく寝返りを打った。)
すると、滑り続けていた階段が止まった。階段は、倉庫からグラウンドへ続いていた。誰もいないグラウンド。
「あら、あなた、何してるの」
黒いおかっぱの中年女性に声をかけられた。眼鏡はかけていないが、阿佐ヶ谷姉妹の江里子さんに少し似ている。隣にもう一人いる。茶色いふわふわした髪。中年女性であることは分かるが、ぼんやりしていて分からない。
「ここは見晴らしがいいわ。野点をしに来たの。一緒にどうかしら」
江里子さんは水色の服を着ている。晩秋の空のような、ほんのりグレーがかった水色。
手に持った籠には風呂敷包みが入っている。
籠と、風呂敷包みの大きさが釣り合わない。野点って、何が入っているんだろう。ここの映像がうまく作れない。・・また例の意識が入ってくる。がんばってレンズの焦点を合わせようとしている。一緒に夢を作っている感じ。
季節は現実と同じ秋で、午後3時頃だろうか。グラウンドの周りは背の高い木々が並び、南側が開けて遠くまで田んぼが見える。
江里子さんともう一人の女性は、草の上にさっと風呂敷を広げる。
「さ、どうぞ。マラソン大会だけが人生じゃないわよ。大丈夫、先生には内緒。お茶を飲みなさい」
そこで、目が覚めた。
途中からやってきたあの意識は、何だったのだろう。あれがなければ、夢の中のわたしは、あえぎながら滑り落ちていくだけだった。わたしは野点の動画は見たことがあるが、大人になってからお茶を点てたことは無いし、茶道具も持っていない。
こころの深い深い場所。子どものころの、苦しかった記憶。ふだん意識していなくても、ぼんやりとしたイメージとして、底の底にちゃんと残っている。
それが夢として出てきたときに、今のわたしが「そのストーリーじゃないよ」と、そっと向きを変えたのかもしれない。
現実に、わたしは体力無し運動能力無しの子どもで、特に体育の先生には理解してもらえなかった。
今、わたしは体育の評価に関係なく、幸せな暮らしをしている。現実に体育の先生に会ったとしても、先生に伝わるように、自分の特性や考えを説明できるし、先生の世界観も尊重することができる。
そういう現実の力が、心の深い場所から出てきた小さな世界のかたまりの、錆を取り払い、部品のねじれを直し、油を差しにきたのかもしれない。
それにしても、「それは無呼吸だから苦しいんだよ」という、とてもフィジカルな気づきで夢が転換するのが、面白く味わい深い。
子どもの頃のわたしと、今のわたし。心と、からだ。みんなわたし自身だ。
夢は途中で終わったけれど、あの中学生のわたしはきっと、江里子さんたちの点てたお茶を飲んだだろう。
午後から夕方に変わる時間。夢の中で吹いていた、ゆるい風。
お茶は温かく、少し苦く、まろやかな味がしたことだろう。