一緒に、手を動かす
「愛媛出身でなぜ猪苗代にいるの!」
「どうして福島に来たの?」
出身地の話になると、驚かれることが多い。しかも結婚でも転勤でもなく、「はじまりの美術館」という小さな美術館で働きたくて、福島県耶麻郡猪苗代町という小さな町に住んでいる。
愛媛県に生まれた私は、小学生から高校生までの12年を松山市で過ごした。
幼い頃からものを作ることや絵を描くことが好きで、いつか、美術やアートに携わる仕事がしたかった。けれども、誰かと一緒に作業することは、関わる人の数が増えれば増えるほど自分の思い通りにいかず苦手だった。
・ ・ ・
転機の一つが、高校の運動会でのパネル絵制作。
母校では運動会が1年で最大の行事で、約300人が乗る櫓(やぐら)を竹から作ることを始め、劇や応援団などチームにわかれて準備をする。
パネル絵チームでは、横幅24mの絵をチームごとに2枚ずつ作成する。期間も人数も限られ、なかなか大変な作業なのだが、ふと「一緒に手を動かすとき、なんだかみんなと話しやすいかも」と気がついた。
なにも持たずにいるよりも、筆を手に持って動かしたり作業をしたりしている方が、自分の場合、スムーズに言葉が出て来る。いろんな人の、話が聞ける。人とつながることができる。
学年を超えて、時にはチームも超えて、パネル絵の制作には様々な人が関わった。
当時は、「ワークショップ」という言葉も「アートプロジェクト」という言葉も知らなかったが、なにかの可能性を感じ取ったときだった。
・ ・ ・
高校卒業後は、茨城県にある筑波大学へ進学した。絵の制作は中学生のときより行なっていて、まだ時間と場所がほしいという気持ちと、絵を描くことに加えて、誰かと一緒になにかしたり、その過程やコミュニケーションに関心があった。そこで高校時代の恩師が筑波大学出身だったことをきっかけにオープンキャンパスに行き、そこで当時、学科を横断した様々なプロジェクトが行われていることを知った。
大学時代は様々な活動をし、そのひとつに、筑波大学附属病院を舞台にしたアート活動「アスパラガス」があった。
アスパラガスは「病院の空気をおいしくする」をテーマに、学生主体でワークショップや滞在制作などをして、様々な人と出会った。
例えば、病院をまちにみたてて、12月の期間にクリスマスの準備を患者さんや看護師さんらとすこしずつ行う「ホスピタウンのメリークリスマス」や、改修工事で暗くなった院内の談話室に様々な学生アーティストが滞在制作をする「アスパラプチデンス」などを行なった。
・ ・ ・
そして2011年。
震災が起こったとき、私は大学1年生の春休みだった。多くのアーティストたちが被災地に向かうなか、私は、なにもできなかった。
行けばなにかできることがあったのかもしれないが、迷惑をかけるイメージの方が強く、当時すぐに被災地に行くことはしなかった。
病院でアートの活動をしているときも「こんなところでこんなことをやっているんじゃなくて、今すぐ被災地に行け!」と我々に怒った患者さんもいたが、そのとき、かえって自分の場所で今できることをやろうと強く思った。
アスパラガスには2010年から2013年頃まで関わった。また、在学中は様々な作品展に参加したり、地域での小さな展覧会に企画したり、2012年からは東京都美術館×東京藝術大学とびらプロジェクトのアート・コミュニケータ「とびラー」の1期生になったり、と、様々な活動に関わった。
それから、2015年春。
縁あって現在の上司に「うちで働かないか」と声をかけられ、はじまりの美術館で働くことになった。
私は、被災地と呼ばれる場所に対して「どうせ関わるなら、住むぐらいじゃないと自分が関わるのは難しそう」と思っていた。
猪苗代町は福島県の中では「被災地」ではないかもしれない。
だが、それでも、震災がなかったら自分は今この場所にいないような気がする。
・ ・ ・
私の職場であるはじまりの美術館には、毎日いろんな人がやってくる。
展覧会や表現にふれて刺激が欲しい人、様々な話をしにくる人、何かをはじめたい人、ただゆっくりと過ごしたい人。
ここで、ここにいる人たちと一緒に手を動かしたり話をしたりして、どんな時間がつくれるだろうか。
いまだに誰かとなにかをすることは得意ではないが、それでもいろんな人とつながり、はじまる、この美術館が好きだ。