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今は無い国への訪問 その4 最初のDDR(ドイツ民主共和国)③ワイマール

最初に降りた駅は、ワイマールでした。ホテルはHotel Elephant。今でも名前を憶えています。和訳すると「象ホテル」。でも当時は緊張で、変な名前なんて考えもしませんでした。ちなみに、このホテルは今でも同じ名前で営業されており、ワイマールでは恐らく高級ホテルにカテゴライズされていて、現在適当な時期で宿泊検索を掛けると、1泊大体3万円以上します。ハイシーズンはもっと高額です。
ホテルの内部のことは全く記憶から抜け落ちています。でも、不便は何もありませんでした。このホテルの受付で、東ドイツ滞在日数×西20マルクを東マルクに両替しました。外国人用ホテルの両替は公式で、書類は強制両替の義務を正しく履行したことの証明になりました。

次の日の朝食後、父がホームステイしたご一家の奥様である、B夫人が迎えに来てくれました。
先ずはご自宅に連れて行っていただきました。このB夫人はとてもお話し好きでした。問題はこちらのドイツ語能力が全然追いつかなかったことです。
ずっと時がたって、ドイツ留学とドイツで仕事をしたこともあって、三度目にお目に掛かった時に、はっきり認識したのですが、このB夫人のドイツ語は、とても明瞭な発音でゆっくりで、ずっとご家庭の主婦として過ごしていらしたので、抽象的な語彙よりも具体的な語彙が多く、ドイツ語初心者には理想的な話し相手でした。
それなのに、大学3年間を理系で過ごした外国語教育しか受けていないと(無論わたしの不勉強がいけないのですが)、5%くらい何とか理解でき、15%くらいあやふやな理解、20%は適当に類推し、60%はわからないんです。はあ、はあ、なるほど、そうですよねを使い回し、時々思い切って質問し、答えの8割はわからないという会話を数日間起きている間ずっと続けてごらんなさい。しかも知らない土地で、知らない銅像(シラーとゲーテだったりするんですが、独文科でないもんで、ごめんなさい、読んだこともない)の説明や、大好きな絵画の前でも一杯ご説明頂くと、理解しようと無駄な努力の空転を脳味噌がするんで、ストレスと疲労が半端ありません。辛うじてレンバッハの「斜面に横たわる二人の農民の少年」(多分習作か下書きなんでしょうが、ひなたや埃の匂い、日光の温度、全身で感じられ、大好きになりました)が記憶に残りました。

B夫人には、付きっ切りでお世話いただき、昼食も夕食もおうちで手作りの料理をふるまってくださいました。お昼と夜は、ご主人も、また夕食は一人息子さんも一緒でした。
ここで、わたしは大失敗をしてしまいました。「牛肉は日本ではとても高価なので、滅多に食べられらない。」とB夫人に言ってしまったのです。当時はまだ関税の低い輸入牛肉が今ほどスーパーに出回らず、三人も食べ盛りがいる母が、牛肉を食卓に載せることはまれでした。
B夫人は張り切り、毎昼食は、大量のバターを使って焼き上げたビーフステーキでした。とても美味しいのですが、食べ慣れない付け合わせと、食べ慣れないバターで揚げるように焼かれたステーキ。殆どわからない会話が飛び交う食卓で、わたしの胃腸は少しずつ確実にやられていったのです。

一人息子さんは、わたしより少し年下でしたが、遠くから来た客人にと、プレゼントを用意してくれました。多分直接渡すのが照れ臭い年齢のせいでしょう。B夫人が、息子がわざわざ探して購入したペンダントだと言って、わたしに渡してくれました。それが上の写真の金属加工のペンダントです。40年以上前のMade in DDRです。今も大事にとってあり、子供への遺品に入れようと思っています。

二月だったので、まだまだ寒く、街中が石炭暖房のせいで、独特の匂いがしたこと、季節のせいで日光が乏しく、街の色が灰色と茶色のトーンだけであったこと(資本主義特有の広告が無いので)、市場に行ったら、冬越しした萎びたリンゴだけが売られていて、心の中でびっくりしたことを覚えています。
またB夫人が、なかなか大胆にも、ドイツ民主共和国は技術力の優れた工業製品を作るが、一番いいものは全部ソ連がもっていってしまうと、ソ連に批判的なことを言ったことも記憶に残っています。

集中的濃厚ドイツ語会話とバターと牛肉の脂のボディブローで、フラフラしながら、電車で次の街ライプツィヒに向かいました。

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