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今は無い国への訪問 その2 最初のDDR(ドイツ民主共和国)①計画
DDRというのは、Deutsche Demokratische Republikの最初のアルファベットを並べたもので、日本での正式名称はドイツ民主共和国ですが、通称は、東ドイツでした。
一つの国が二つに分かれている状態は、世界史と地理が苦手なわたしが、今すぐに思いつくのは、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国(通称・北朝鮮)ですが、1990年に東西ドイツの統一がなされる前には、ドイツも、ドイツ連邦共和国(BRD、通称西ドイツ)とドイツ民主共和国に分かれていたのです。
生涯最初のパスポートを大学3年生で手に入れ、主に家庭教師のアルバイトで3年間貯めた貯金を投入し、いきなりヨーロッパ個人旅行に出かけました。
事情をご説明致しましょう。
今と比較すると夢のような、当時の国立大学の低額の学費とはいえ、年下に更に2人、大学に行こうとする弟達がいるので、学費だけは自分でなんとかすると、大学1年生の後期から大口を叩きました(入試費用、入学金、前期の学費や最初の半期の通学定期は全て親が払ってくれました)。理学部にもかかわらず、空いた時間はせっせとバイトに励みました。学校とバイトと家だけの学生生活でした。でも、住むところと食事と基本的衣料を親がかりで生きていた自宅生という幸運のお陰で、3年分の貯金で、YHを泊まり歩くという貧乏旅行とは言え、ヨーロッパ旅行が実現したのは、本当に親のお陰です。
親の影響は、旅行の実現ばかりでなく、旅行先にも及びました。
父は、自分の大学とは別の大学で、ドイツ語を教える教授でした。
テーマからずれてしまいますが、父はわたしの大学にも講師に来ていて、偶然わたしの入学後のクラスのドイツ語の担当でした。勿論、成績の公平性に疑惑が持たれるから、父親の講義には出られません。わたしは慌てて、自分の大学のドイツ語主任教授に面会をお願いし、学科のクラスから単独で、同じ時間帯に実施されている別のクラスに移動させてくれと申し出ました。理系は義務の実習がやたらに多く、時間割の自由度が特に初学年では殆どないので、同時に行われている別の授業に入れてもらうしか、選択肢はなかったのです。主任教授は、語学に関してはクラス移動の例外は認められないとお叱りの表情だったので、理由を明かして、主任教授の授業に入れて頂きました。それが文科系学科のドイツ語初級授業だったので、文系ドイツ語と理系ドイツ語の水準の差に大いに苦しみました。文系の語学は、理系の語学とは段が二段違いました。
寄り道はここで終わりです。
で、その父は、東ドイツ出身のある作家が研究テーマだったので、ある時期、文部省の短期研究者派遣事業で、東ドイツのワイマールという街に数か月滞在したのです。
父は、ワイマールのある研究者のおうちにホームステイする形で、その研究機関で研究したので、ホームステイ先のご一家と仲良くなりました。
また逆に、ドイツから派遣されてくる研究者の日本の大学での案内係にもなったので、ライプツィヒ大学から派遣されたある教授とも知り合いになりました。
父は、ワイマールのホームステイ先のおうちと、ライプツィヒ大の教授に手紙を書いて、娘が生涯最初の外国旅行をするので、案内をお願いできないだろうかと問うてくれ、双方から、承諾の手紙を貰ってくれました。
理系なのに、大学で美学(なにしろ美学担当の教授が素敵という不純な動機)に目覚めたわたしは、簡単には行かれないドレスデンのツヴィンガー宮殿の宝殿と絵画館も訪れようと計画に入れました。
思惑としては、ドイツ民主共和国で、ワイマール・ライプツッヒ・ドレスデンの三都市に各数日ずつ滞在しようというものです。