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今は無い国への訪問 その11 社会主義と資本主義


前書き

ここまで書いてきたように、わたしはかつてのドイツ民主共和国を3度、そして旧東ドイツの同じ街と同じ人たちを、ドイツ連邦共和国に統一されてから8度訪れました。
いずれも、「訪問者」としてであり、旧西ドイツ地域に10年間、外国人の居住者として生活していましたが、旧東ドイツ地域で生活をしたわけではありません。

前にも書きましたが、わたし自身はノンポリで、正直「社会主義」「共産主義」「資本主義」「民主主義」の定義も区別もよくわかっていない人間です。

だから、この文章は、社会主義体制下のドイツ民主共和国を1980年代に3回、2007年から2015年にかけて、資本主義の体制で統一された、旧東ドイツ域を8回、訪問者として友人を訪れ続けた、ただの日本人観光客としての感想です。

社会主義体制下時代の東ドイツの印象

体制の違う国からの客として、査証の取得は当たり前、ホテルは指定の箇所しか泊まれず、支払いはドルかDM(西ドイツのお金)、加えて一日当たり定額を東ドイツの弱いお金と、現行に合わないレートで交換を強制等々、かなり厳しい規則の下に観光しなければなりませんでした。場合によっては、社会主義体制を毒す行動をとらないか、観察されていたかもしれません。

最初の訪問を描いたブログでもちょっと触れましたが、寒い時期に西ドイツから東ドイツに入った時には、空気の匂いが違いました。暖房に使う燃料の違いなのか、空気清浄過程の違いか、明らかに東ドイツの空気の方が、正直健康に悪そうでした。まだ環境汚染低減への技術に気を配るより、当時のソ連に求められていた重工業製品の増産が大事という感じが、ただの旅行者にも感じられ、その傾向が住宅暖房にもあったのだと思います。

街の色どりも、全く違いました。西ドイツは資本主義だったので、日本ほどネオンをギラギラさせる状況はありませんでしたが、それでも看板は華やかで、広告の立て看板もあちこちにあり、購買意欲をそそるために色鮮やかで、それが石造りの街に彩りを加えています。また西ドイツも東ドイツも第二次世界大戦の爆撃で大都市はやられたわけですが、復興とその後の建物のメンテナンスが、資本がある西ドイツの方が盛んでした。東ドイツも、建物を再建しましたが、良く言えば質実剛健、悪く言えば、兎も角住むところを建てましたという感じはありました。

友人たちにお世話になりっぱなしだったので、東ドイツの住民が行くスーパーマーケットのような店に行く機会が無かったのは返す返すも残念ですが、一度ワイマールの広場で行われていた市に行って、その品数の少なさ、品質の低さには驚きました。目についたのは、しなびた様な不揃いの林檎でしたから。
一方、東ドイツでは、ワイマール・ライプツィヒ・ドレスデンとも、田舎ではなく、街と言って良い規模ですが、どの家でも庭で野菜や果物を栽培し、収穫物を煮たものを瓶詰にして、ストックしていました。店に何でもあると、買った方が便利で安価となりますが、そういう消費行動はできない状況なのが、ただの訪問者にもわかりました。

政治的な話は、訪問先の迷惑にならないようにと、自分の安全のため、こちらからは絶対しませんでした(語学力も無かった!)。でも、ワイマールのB夫人が、ソ連が東ドイツの良いものは全部持って行ってしまうという不満を漏らしていたのは、印象に残っています。STASI(シュタージ)、つまり東ドイツの国家保安省(秘密警察・諜報機関)の話は、ありませんでしたし、統一後も誰からも一言もありませんでした。

観光客としては、わたしは孤独でした。東ドイツに観光客は少なかったのでしょう。アジア人としては、1980年代に同じ社会体制のベトナム人が、労働力強化のため、およそ6万人近く東ドイツに導入されたと、文献を調べるとありますが、恐らく男性中心で、女性のアジア人はとても珍しかったのだと思います。街中を歩くと、子供も大人も目で追ってきます。友人が傍に居てくれてる間は、それでもいいのですが、独りで歩くと、なかなか視線に慣れませんでした。

ところが、上手でないドイツ語でちょっと道を尋ねたりすると、皆さん、大変親切でした。ドレスデンで病気になった時、往診に来た医師も、自分のプライベイトの連絡先をくれました。困ったときは互いを助けるという、当たり前のことですが、矢張り経済的に貧しい状況下、助け合いは庶民の武器なんだろうと感じました。

東西ドイツ統一後の旧東ドイツ域の印象

東西ドイツ統一後、17年後から25年後までの期間で8回、資本主義体制下で訪れた印象は、やはりそれなりに異なりました。

ドイツで働いていた10年間、ドイツの会社の給与明細書を見ると、Solidaritätszuschlag(連帯付加税)という項目がありました。これは統一後の東ドイツの復興に使うための税金ということで、年額にすると、変動はありましたが、およそ2000ユーロ近く。今の交換レートなら30万円前後です。つまり10年間で、数百万円くらい、外国人でも払ったわけです。東西ドイツの分裂や統一なのに、選挙権も関係もない外国人にも払わせるのかあ…と文句を言いたくなるくらいの額ですよね。勿論問答無用で天引きですから、どうしようもありません。

住民(含む外国人)や会社から幅広く集めた資金を、復興につぎ込んでいくのですから、街の様子はどんどん変わりました。簡単に言うと、灰色だった街に色彩がもたらされました。特にワイマールとドレスデンは、歴史的に非常に重要な意味を持ち、観光地としても復興させようという方向性が見て取れました。一方ライプツィヒは、観光できる範囲は最初に建て替えられたり、綺麗にされていきましたが、街全体が観光地であるわけではないので、パッチワークのように、古いまま、それどころか、放棄されたような街の部分と、綺麗にされた部分の差が激しい場所が随分ありました。最後の訪問から、既に10年経ったので、今はもっと復興が進んでいるとは思いますが。

友人たちとの人間関係には、政治体制の大回転は、何の影響もありませんでした。これは、当たり前だと思いますか?正反対と思われる体制の変化が、個人的関係には全く影響を与えないというのは、わたしには驚きです。軍国主義から、敗戦の日を境に、思想転換を迫られたわたしの親世代なら、「そんなもんさ。」と言うかもしれませんが。

統一後25年に子供がインタビューした際、ライプツィヒのW夫人が、同じ期間、同じ様に大学の教員として、真面目に仕事をしてきたのに、旧西ドイツ域の大学教員より、旧東ドイツ域の大学教員の年金が低額なのは、矢張り不公平に感じられる、物価はほぼ同等なのだから、とこぼされたのは、胸に刺さりました。また、ドレスデンのR教授が話した、伝聞の形にせよ、東ドイツのある村の村長一家が、突然、丸ごと行方不明になったことは、シュタージが関係したかどうかは別にして、怖い話でした。考えてみれば、元シュタージの人達は、市民として、変わらず生き続けているのですからね、わざわざ名乗らなくても。

これから

ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、旧東ドイツ域の人々の不満が、現在、却って、この地域の、反移民を掲げる“右寄り”(AfD)政党支持拡大に繋がっているのは、皮肉なことです。
https://www.mizuho-rt.co.jp/publication/2024/pdf/express-eu240924.pdf

直接比較できる人々の間での、富の格差拡大や不公平感/不満感が増せば増すほど、政治が極端な方向に向かい易くなり、争いが近くなるというのは、普遍的なことなのでしょうか…。
日本も例外ではないことは、先の戦争が現しています。今、背後からきな臭い匂いがするのは、わたしの気のせいだといいのですが…。


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