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今は無い国への訪問 その10 BRDになってからの旧東ドイツ訪問

今回のブログのテーマは2つあります。
一つ目は、年月が経つと、登場人物が舞台から去っていく寂しさと、二つ目は新しい登場人物の成長。老いるものと伸びるものの交代劇です。
その前の長い前書きを、ご勘弁ください。


前書き

三度目の繰り返しですが、ベルリンの壁が崩壊したのが1989年、東西ドイツ統一は1990年でした。この年号はドイツのことを書こうとする人間にとって、忘れてはいけない数字です。

1989年のベルリンの壁崩壊直前に、学位を授与されて日本に帰国し、就職活動の結果、1989年の12月にドイツの会社が親会社の、日本の外資系企業の研究所に就職しました。17年間、日本でひたすら研究所勤務だったのですが、あるとき、親会社のリストラの波が、小波となって日本の研究所に及び、自分が所属する研究室だけ閉鎖という憂き目に逢いました。研究室の室長から研究員全て、日本国内での配置転換で、この時のリストラで退職を迫られた同僚はいなかったのですが、若くない研究員だったわたしの引受先がなく、お前はドイツ語もできるだろうし、ドイツの親会社が引き受けてくれそうだから、行ってこいと、面接に送り出され、なんとかドイツの研究所が引き受けてくれることになりました。

で、2007年から、子供と共に渡独し、途中更なる日本に向けたリストラの大波で、日本所属の地位を失い(日本の同僚も多数解雇されました)、親会社での現地採用に切り替えて、リストラを生き延び、2016年までドイツの研究所で10年働きました。

つまり、東西ドイツ統一後のドイツに、統一後17年後から26年後まで滞在したことになります。
今度は、旧西ドイツの地域に住んでいるので、旧東ドイツ域に旅行するのは、国内旅行。ドイツでの労働ビザがある身分ですから、旧東ドイツに観光旅行行くのに、何の手続きも必要ありません。通貨も同一です。EU外の外国人の身分証明として、どこに旅行するにも日本のパスポートは必携ですが。でもそれはドイツ人がAusweis(身分証明カード)必携義務があるのと同じことです。

この、2007年から2016年までの足掛け10年間のドイツ滞在中に、8回、旧東ドイツのワイマール・ライプツィヒ・ドレスデンを訪れています。毎回3都市をセットで訪れたわけではないですが、旧東ドイツ域の訪問は、ベルリンを除いても、8回でした。これは、観光ではないからです。友人に会いに行くという目的だから8度も旅行しました。

舞台から去る登場人物

2007年に渡独し、2009年の二度目の旧東ドイツ域訪問にワイマールを訪れましたが、既にワイマールのB夫妻のB氏は亡くなっておられました。つまりわたしの子供は、B氏にお目に掛かることは出来ませんでした。寡婦となられたB夫人は、その時までご自宅にお住まいでしたが、その後、老人ホームに入所されるとの連絡が手紙であったきり、音信不通になってしまいました。でもこの最後の邂逅の際、B夫人は手のひらに載るウサギの置物を子供に贈り、子供は今でも持っているそうです。

8回の旧東ドイツ域訪問の際、欠かさず訪問したライプツィヒのWご夫妻ですが、お二人とも、もうその当時はライプツィヒ大学をご退職なさっておられました。最初の2回の訪問時には、W教授が運転して、小さな自家用車に詰め込まれるようなドライブで、ライプツィヒの観光案内をしてくださいました。3度目の訪問時には、W教授はご病気で、おうちでのお茶を楽しむだけの訪問となりました。
そして、その次の4度目のライプツィヒ訪問は、W教授のお墓にお花を供えるという悲しいものとなりました。
遺された、大学の講師であられたW夫人は、いつもいつも活動的で明るい方でしたが、丁度子供がAbitur(大学入学資格試験)と戦っていた2016年にお亡くなりになってしまいました。
お二人とも大学勤務の教育者であられただけに、子供が10歳から18歳になるまでの成長過程の折々を見て、背の高さがぐんぐん伸びていくばかりでなく、精神的な発達や、特に2011年からは子供がドイツの学校に入学したので、ドイツ語会話能力の発達を、非常に熱心に関心をもって、喜んでくださっているのが、ひしひしと伝わってきました。子供も最初はわたしの通訳を通じて、途中からは自分である程度ドイツ語で会話できるようになって、相手からの慈しみを感じ、尊敬をもって接しているのがよくわかりました。

ドレスデンにお住いのR医師とR教授のご夫婦には、8回の旧東ドイツ域の全てでドレスデンまで行ったわけではありませんが、毎回夫婦で街や見どころを、自家用車を使って案内してくれました。あるときから、R医師は、自分の医院をお嬢さんに譲り、自分はサブの医師として診療していると仰っていましたし、R教授もあるときからドレスデン大学を退職なさっていましたが、三組のご夫婦の中で、一番若いペアということもあり、今でも関係は、年一度のメールですが、続いています。会うときは、R医師はワンピース、R教授はネクタイ姿のことが多く、客人にフォーマルに接するご夫婦です。

成人してから友人になった、6人の方々ですが、時の流れとはいえ、もう2人としか連絡が取れなかったり、もしドイツに行っても会えないのは、本当に寂しい事です。

新しい登場人物

ドイツで働いていた間の、最後の旧東ドイツ域の訪問は、2015年8月でした。つまり東西ドイツ統一後丁度25年経過後です。
子供はギムナジウム卒業を目指し、その後の日本での大学の入試の小論文対策として、旧東ドイツ市民に自らインタビューし、それをまとめておこうと思いつきました。勿論相手方の同意がなければできません。
先ずはヴォイスレコーダーを旅行前に用意し、ライプツィヒのW夫人に、子供の意図と聴きたい内容とご同意頂けるかどうか尋ねました。
W夫人は、録音にも名前を記すことにも、ご同意くださり、子供はわたしの助けを殆ど借りずに、録音しながら、自らもノートを取りつつ、インタビューをしていきました。2011年秋から、それまで日本人学校中学生だった子供は、いきなりドイツ人学校に転校したわけですが、それから苦労しつつドイツ語による授業を4年ほど受けていたので、難しい言葉には説明が、またゆっくりとした話し方でないとついていけなかったわけですが、W夫人は生き生きと、とてもわかりやすく、インタビューに答えてくれました。自分が1929年に当時のチェコスロバキアに当たる地域に生まれ、敗戦と共に生まれた土地を家族ごと追われて、ライプツィヒに住み始めたこと、既に高校生だったので、女性でも瓦礫の撤去等に駆り出されたこと、同じ高校に将来の夫となるW少年が転校してきて、顔立ちは兎も角、大変頭が良くて、惹かれたことなども話してくれました。
東西ドイツの統一については、統一は良い事だったと思う、ただ東ドイツにもいい点はあったと感じる、今のドイツの人々は、当時の東ドイツの人々と比べると自分の利益ばかりを考えている様に思うとのことでした。子供がストレートに、「あなたは今でも、どちらかと言えば左派ですか。」と質問すると、「そうね。」とのお答えでした。
わたしは子供がそれなりにインタビューが出来ることを確認したので、写真係として二人のインタビュー状況を写真に撮りました。
W夫人は、最初に会ったときは小学5年生で自分より小さかった子供が、中三からドイツ人学校に通い始め、背は頭一つ分大きくなり、18歳となってそれなりのドイツ語で自分にインタビューしている様子が嬉しくてならないようでした。子供が14歳からドイツ人学校に入ってからも、毎年のドイツ語の伸びを確認し、毎回子供に向かって、褒めて褒めて褒めまくり、一生懸命力付けてくれていました。

ドレスデンのR夫妻は、インタビューへの協力はするが、録音写真は無し・名前も出さないことが条件でした。東西ドイツ統一25年たっていても、ドイツ分断の影響は生々しいことが、直に感じられました。
内容については、子供がメモをとっていたので、わたしは思い出せませんが、R教授が高校生の時に、物理のノートをロシア語で取っていたと、見せてくれました。当時の東ドイツでは、日本が英語を勉強させられたように、東ドイツではロシア語を勉強させられていたわけです。
また、知人から聞いた話ということでしたが、東ドイツ時代、ある村の村長一家が、ある日、一家ごと丸々全員突然いなくなってしまったことがあったそうです。
また、この時の訪問の際の街の案内ドライブの途中、ドレスデンの街並みの中で、「ここが当時プーチンが住んでいたアパートだよ。」と建物を指差しました。プーチンは、若い頃ドレスデンでKGB勤務していたことがあり、彼のドイツ語は、ロシアなまりがわたしでも聴き取れますが、流暢です。
こういう事情ですと、統一後25年経ったとはいえ、録音写真はなし・匿名でのインタビューを希望するというのは、理解できますよね。

子供は、この三人の方々へのインタビューを基に、日本に本帰国してから、小論文を書きました。

たとえ他人の子供の成長でも、子供の成長を喜ばぬ大人は基本的にいないとは思います。W夫人とRご夫妻が、自分より小さく、まるで言葉が通じなかった子供に背の高さで追い越され、自分の話す言語を徐々に上手になっていく様子を喜ばしく思い、また常に子供を励ましてくださったことは、本当に尊いことです。
そして子供が、それぞれの方のたぐい稀な思い出を、直接聴くという機会に恵まれたことも、素晴らしい事でした。



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