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今は無い国への訪問 その9 三度目のDDR

もう一度書きますが、ベルリンの壁が崩壊したのが1989年、東西ドイツ再統一は1990年でした。

後知恵で言えば、ソ連でミハイル・ゴルバチョフ氏が共産党書記長に就任したのが1985年で、これがワルシャワ条約機構が無くなる最初の兆候だったのでしょう。でも、1984年からドイツ国費留学生として、西ドイツに滞在し始め、1985年に日本から来た両親と共に東ドイツを訪れたのですが、東ドイツがそのたった5年後に存在しなくなる可能性に、全く気づきませんでした。

ドイツ国費留学生として、1984年の春に渡独し、最初の2か月フライブルクという南ドイツの都市で、世界中各国から集まったドイツ国費留学生のドイツ語特訓語学コースに突っ込まれ、その後、場所を移して、本来の留学先の大学の留学生ドイツ語試験に合格し、晴れて博士課程1年生として入学を許され、指導教官の下、1年間が過ぎました。そして1985年の夏休みに、娘が留学していることを理由に、両親がドイツに来てくれたのです。

今は違うとのことですが、留学先大学の全ての講義・演習・実習がドイツ語で行われていた当時、流石に一年間揉まれていたので、ドイツ語会話力は格段に上がりました。まあ、現在の状況と比べると、数割程度の能力に過ぎなかったと思いますが、日本の理系学部と理系修士課程の大学のドイツ語しかやっていない頃と比較すると、という意味です。

父は日本の大学で独語を教えている立場でしたので、母は、旅行中は両手に通訳がいるような状態でした。

両親との旅行中に、集中的にドイツ人と会話し、母に通訳が必要な機会は、食事やティータイムも含めますから、それぞれ少なくとも半日以上の長さで、4回ありました。西ドイツの留学先の博士課程の指導教官である教授との会話、ワイマールのB夫妻、ライプツィヒのW夫妻、ドレスデンのR夫妻との会話の場面でした。
通常、本格的に逐次通訳が入ると、会話時間は少なくとも2倍以上に伸びます。単純に別言語との往復時間が入りますし、誤解が全くないことはまれなので、軌道修正や間違い直しが加わるからです。プロの通訳や、同時通訳なら別でしょうが。

ここで、わたしは、日本の戦中戦後直後の語学教育の功罪をまざまざと目にしました。
父は第二次世界大戦中は、年若だったので、軍隊に招集はされませんでしたが、学業を脇におき、工場で労働させられました(母は学童疎開)。
戦後、旧制高校から新制大学の移行期らしいのですが、ドイツ語を専攻しました。
父は、戦争中の飢えの記憶から、生涯さつま芋を嫌っていました。さつま芋を口にすると、当時の若い成長期での激しい飢えを思い出すとのことでした。

戦中戦後の時期でしたので、外国語専攻にもかかわらず、高度成長期が終わった頃になるまで、父にドイツ行きの機会はありませんでした。物にも機会にも恵まれない中、ドイツ語を学校で、本や文献だけで(それだって今とは比較できない選択の乏しさだったでしょう)、音響機器もない中、勉強したのでしょう。

両親とドイツ人の会話では、全く理解できないのは母だけなので、いちいち会話を停めるわけには礼儀上行きませんが、折々にまとめて母に伝えないと、母だけ孤独に取り残されます。ところが、各々の場面で会話が30分くらい続くと、わたしのまとめ通訳に、父が頼っていることに気づきました。

父は、集中してドイツ語を耳から聴いて理解することに、最初の数十分で疲弊してしまうのでした。文字起こししてあれば、楽勝でしょうが、若いときに耳から聴いて理解し、返答する訓練を受ける機会を、戦争のせいで奪われていたので、いくら教授になってから、3か月間文部省からの短期研究派遣を経験したとしても、訓練が遅すぎ、短過ぎたのでしょう。
娘がそれなりに理解し、まあまあの程度で母に通訳しているのを見て、気が緩んだせいもあるかもしれません。兎も角、父は自分からの質問や返答は自分でしますが、母の面倒はお前に任せた感満載でした。
母は、日本から着物を持参し、またシューベルトの「菩提樹」の歌曲をドイツ語で披露し、なかなかサービス精神旺盛で、どこでも歓迎されていました。

ところが、どこか歴史的施設を訪れて、そこに説明文があると、わたしが最初の数行を読んで、何が書いてあるんだろうかと理解し始めている間に、父が母に向かって翻訳を始めているのです。
あり得ないスピードで最後まで読んで、同時に日本語で理解しているらしい父でした。当たり前ですが、父はドイツ文学者として、わたしの百万倍の量の文章をドイツ語で読んでいます。言い訳ですが、わたしが自分の植物形態学の研究のために読んでいる文献は、9割5分以上英語でした。
恐らく若いときに受けた訓練は、多量の文学作品を読みこなし、理解し、解釈することだったのでしょう。
本当にあの速読と理解のスピードは、今思い出しても驚嘆です。

わたしは、ドイツ語会話するときや、ドイツ語のドラマテレビ映画を鑑賞するとき、ドイツ語をドイツ語として理解しています。ドイツ語会話の際にはドイツ語で考えます。日本語を噛ませると、手間ですし、時間のロスですし、言いたいことも伝えられないからです。
ただ、ドイツ語を読む訓練が欠けているので、文章を読むときは、脳内で無音発声して、それを理解するので、とてつもなく遅くなります。

父が頭の中でドイツ語をどのように理解していたのか、何で問わなかったのか、今となって酷く後悔しています。





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