「それはよしといたほうがいいわね」
わたしの祖父は、外国に行く船の船乗りだった。
関東地方の方は船名をご存知かもしれない。氷川丸にも乗船していた。
小さな子供だったわたしは、将来大人になると、仕事をしてお給料をもらわなくては生活できないこと、船乗りは港々を移動しながら仕事をすることを、辛うじて理解し、色々なところを旅行しながらお金を貰えるなんて、なんていいんだろうと思っていた。
10歳になって、いつもの様に学校休みに祖父母の家に遊びに行った際に、思い切って祖父に「将来船乗りになりたい。」と打ち明けた。
祖父は「女の子はなれない。」とは言わなかった。時代を考えると、驚異的だ。当時の商船大学でさえ、女子の入学を認めていなかった。
祖父は、いつもの慎重で優しい口調で、「それはよしといたほうがいいわね。」と言って、子供に分かるように話し始めた。
ある時、祖父の乗っていた船が沈み始めたそうだ。船員に逃げるように命令が下った。祖父も逃げようとしたのだが、船が傾いたせいか、ドアが閉まり、祖父の靴を履いた足の部分ががっちりとドアに挟まれ、足を抜けなかった。冷静に考えれば、絶体絶命なのだから、靴を脱ぎ棄て、兎も角救助船に乗り込めばいいのだ。でも、人間焦っていると、そんなことさえ思いつかず、必死に靴足を抜こうともがいたそうだ。結局どうにかして助かった(そうでなければ、父もわたしも存在しない)。「板子一枚下は地獄」を子供に分かるように説明してくれたのだ。祖父の声の穏やかさと、ひどく本気な様子は、長くわたしの記憶に残った。
その時わたしがどう答えたかどうかは、もう覚えていない。でも高校三年生の時に、担任の教師に、国立東京商船大学に女子の入試が認められるかどうか問い合わせてもらったので、諦めてはいなかったのだろう。大学からの担任を通した返答は、「女性用の施設がないので、駄目。」であった。
わたしは「さようか。」とさっさと専攻を理学部に改め、進学したが、あろうことか、翌年から東京商船大学は女子の入試を認めた。でもわたしは生物学も面白かったので、船員の夢を追わなかった。
海外に出る夢は、5年間の留学生活、10年以上の海外での職業生活で、違った形で実現した。海外の拠点から、あちこち旅行して、色々な国・地域・都市も見ることが出来た。
いつか、向こうで祖父に再会したら、祖父の時代のあちこちの国の様子や当時の船員の生活を聞きたいし、わたしが見た国々の様子も話したいものだ。船乗りにはならなかったよ、おじいさん。
(この作文を書いたのち、あちこちで調べたら、祖父は氷川丸には1945年1月から1949年1月まで乗船していたことがわかった。時代を考えると、祖父は、氷川丸では、華やかな客船の時代ではなく、病院船・引揚船・戦後の極窮乏時期の物輸を経験したはずだ。)