無責任な無思考
コロナというワードを一日一度も思い浮かべず、考えずに過ごしてみたい!と願ってしまう程 突如日常から切っても切り離せなくなった、肉体だけでなく精神までも蝕んでくるようなウイルス。
自分自身は仕事も在宅・土日も散歩やランニング、最低限の買い出しのみで出掛けることもない。だからこそなのか、TVニュースで鎌倉が県外ナンバーの車で混み合うといったニュースを見ると、心がざわついてしまう。自分が我慢しているのだから、みんな我慢すべき、とは思わない。それよりも、あぁこういった状況でも楽しい場所に出かけたい等と思う人がいるのか、外出自粛とはどういった意味なのかを理解しようとしない人がいるのかという事にシンプルに驚く。もちろん、皆が遊びに出かけた訳では無いだろうし、中には車から一歩も出ずドライブをした人もいたかもしれないし、各人が何を考えて思って行動しているのか私には分かる術もないので、誰かを非難したいわけでは無くて、どんな状況下でも人々の意識には差があるものであり、強制力の如何に関わらずルールを作ると抜け道を作ろうとしてくる人がいるものだと気付かされる。
前置きはさておき、最近すこーしもやっとしてしまう出来事があった。好きで聞いているタレントのラジオで、「マスク2枚だって要らないかもしれないけれど、無いよりはあった方が良い訳だし、文句を言うのはやめた方が良いのかなと思う。」というような趣旨の発言をしていた。このタレントを批判したい気持ちは無く、ラジオはまた聞くだろう。けれど、この発言が思い起こさせたのが「無思考は無責任」という言葉。これは、私の2019年ベスト映画といっても過言ではない『存在のない子供たち』という映画を見た際に、映画館(確かTOHOシネマズシャンテだったような…)に貼られていた誰か著名人の映画に対するコメントで見つけた言葉だった。写真も撮っておらず、誰のコメントかも確認していなかったので、後々調べても見つからず、けれどずっと心に残っている言葉だ。この映画自体が素晴らしく、映画館で2回見たので、この感想も書き記したいのだが、今日はコメントについて思う事を綴りたい。
「思考」というのは恐らく人間の持つ武器ではあるけれど、時に行動を阻み、恐怖を生み、後悔の念を生み、人を陥れることもある面倒なものだと思う。私自身、考えすぎてしまう自分の性格が面倒でならず、何も考えずに生きたいと思っていた。けれど、「無思考は無責任」と聞いて少し救われた気がした。自分が無力だと感じ、何も出来ないと思う現在のような状況。(世界の貧困問題や、戦争・紛争などをイメージ。)当たり前にして来たことを止めざる負えず嘆いてしまうような現在の状況。何も出来ないから、見ないようにする・臭いものには蓋をしてしまうという選択も勿論有りだし、時にはそうしないと人は生きていけないと思う。けれど、まずは状況を把握して、すぐに何も出来ないとしても、ある問題について考えてみる、自分に出来る可能性があることは何なのか考えてみるという事には価値があると励まされたような気がしたからだ。一度耳にして、考えて自分の中に取り込んでいた問題は、ある時何か自分に出来ることと結びつくかもしれない。自分の思考の層の何処かに入っていれば、それを取り出して考え直してみることだって出来る。思考するという事は、ある出来事に対しての一つの責任の引受け方であると教えられた気がした。マスクの話に戻ると、もがいたって意味ないから、無いよりはましだから、考えずに受け入れてみようと言われた気がして、私は少しもやっとしたのだ。面倒だけど、今こそ考えるのを放棄すべき時ではないと思うのだ。同時に、単純に表に出ているというだけで、自分の意見を常に問われ、自分の言葉で100%説明できるわけでもないのに、都合の良いように切り取られてメディアや匿名の一般人に批判されるという芸能人の大変さ・難しさも感じたので、あるタレントやその番組を非難したい気持ちは無いということは強調しておきたい。
肩ひじ張らず、疲れすぎない程度に考えるという形で向き合う事を止めない日々を送りたい。今の私には考える時間が、そして考えたことを反芻し、書き綴る時間が、大切な誰かと考えをぶつけ合う(もっと素敵な表現がありそう)時間が充分にあるから。
私に沢山の思考の海を与えてくれるから、私は映画や小説などの物語が好きなのだろうな。
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