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愛情を求めること、与えること、そして受け取るということ。新世紀エヴァンゲリオンを観て (TVシリーズ、旧劇場版)
新世紀エヴァンゲリオンシリーズを観た(テレビシリーズと旧劇場版)。そっから下記note記事を読んでみた。いろいろ心に沁みたので、記憶がフレッシュなうちに書き出してみようと思う。
人間は他者なしては生きていけない。でも、他人とのpush and pullが時に辛くなってしまう。心を通わせては、裏切られ、その繰り返しが人生なのかもしれない。けど、自我を確立させるにあたって他者は必要なのか、求められる事肯定される事は必要なのか。それを、親の愛が欠如している14歳の少年少女等の視点から描かれている作品、と私は理解した。
事実、14歳の頃の自分を思い出そうとしても、なかなか恥ずかしくて詳細までは記憶に蘇らせたくない。不安定な時期だったのは確かだ。好かれたい、でも好かれない。伝えたい、でも伝わらない。そんな事ばかりに悩まされていた気がする。
繋がりを求めつつも掴めず、全てが思い通りに行ってそうな周囲のクラスメイトに嫉妬したり。苦しかったのは確かだ。
10年以上前の事だけど、その当時の自分は、新世紀エヴァンゲリオンの主人公達と同じように、他者と自分の距離感に苦しんでいた。
この数年間のうちに、やっとどれだけ他者が大事なのか自分自身に認めることが出来るようになった。でも、他の誰かを大事にするということの重みや、前提として自我を理解していないと距離感の不安定さ故に他者を傷付けたり、傷付かれたり、勘違いを引き起こしたりする事も、身をもって体感した。
この作品に出会うまで、「人間は個々では不完全」だとは何となく知りつつも、「では一体化すれば完全なのか」「他者という厄介な存在がいなければ虚無感は消えるのか」「他者という区別がない方が幸せなのか」なんて、考えた事がなかった。壮大な仮説上の議題だけど、実に壮大すぎて、このシリーズを観る以前に意見を聞かれていたら「分からない」と答えていたと思う。観た後の今だって、あんま良い答えは出せない。分からない。
だけど、シリーズ内で一貫しているシンジの『気持ち悪さ』を「他者を、自分の自我を補う為に存在している、代わりのきく存在、として見ること」とするならば、私だってある程度気持ち悪い人間だと思う。
ただ、代わりの効かない人間がここ数年で増えていて、その人間らを愛していると心の底から言えるようになった。
他者との繋がりは、承認欲求のためのもの、なんかじゃないし、それでは説明が浅過ぎると感じる。愛情を求め与えたいという気持ちは、「承認欲求だ」では片付け難い、もっと奥深い人間の魂を形作る根本の部分なんだと私は思う。
自分以外の人間からの承認欲求は、人間誰でもある闇の部分であって、それを手放すことは、ある意味サイコパスでないと出来ないと思う。
ただ、シンジの様に「愛情を求める」のみで「与えたい」という部分が欠如した時に、問題は生じる気がする。シンジは、自我が不安定な故にありのままの自分に愛情を感じる事ができず、他者からそれを補おうとしつつも、十分に他者に「与える」事ができない・与えて拒否されるのが怖い、という矛盾に最初から最後まで苦しんでいたのかも知れない。
アスカに好かれたい、彼女は隣にいる、でも拒否されるのは恐ろしい、怖い、なら首を絞めてしまおう。でも頬を撫でる仕草に我に返り、「もしかしたら、愛情はあるのかも知れない」と、混乱が溢れて泣き出してしまう。それが故の、最終場面の「気持ち悪い」なのかも知れない。
私も時に、愛する人達が、私が彼らへ与えたい愛を受け取ってくれないのではないか、重いと思われるのではないか、と怖くなり、撤回したり撤退したりしたくなることもある。
有り難いことに、最近はその不安を感じる事が減ってきてるし、ちゃんと大事に受け取ってくれているのを感じる。それは凄く幸せな事だ。
でも確かに、「受け取ってくれた」と認知できないと、無性に不安を感じてしまうという事自体、私の自我の揺るぎ易さや、他者への依存、自他の境界線の不安定さを物語っているのは、一目瞭然だ。自分だって所詮、他人に寄りかかって生きているんだと、改めて思い知った。
それを、気付かせてくれたこの作品には感謝したい。ありがとう!
とっても考えさせられる作品だった。もう一回観るぞ!飛ばしちゃった部分もあるので…
では次のnoteで✨