カールじいさんの空飛ぶ家(2009) 「人生という名の冒険」
愛する妻に先立たれた孤独な老人カールが、少年ラッセル、そして「空飛ぶ家」と共に、幼い頃に夢見た伝説の滝を目指すロードムービー。切ないメロディーと美しい色使いで、人生という冒険を鮮やかに描く。現ピクサーのCCOピート・ドクターが送る、老若男女楽しめる優しいファンタジー映画です。
何と言ってもこの映画の代名詞は、カールじいさんの半生を描いた冒頭のサイレントシーンでしょう。この「至高の4分20秒」は、公開当時から観客の度肝を抜きました。カールとエリーの暖かくも切ない人生を、セリフを一切使わず、音楽と映像だけで表現しています。このサイレント演出は、カールの無口な性格を受けてのもの。言葉がなくても通じ合うカールとエリーの関係性がよく現れています。短い中にも人生の浮き沈みがあり、しっとりと、しかし大きく、観客の心を揺さぶるのです。
ここでまず注目したいのは、各シーンの情景を表す音楽の使い方です。色々な音色が入り混じった重奏的な盛り上がりから、最後の消え入りそうなピアノソロまで、一つのテーマソングで語られています。本作の音楽担当は、Mr.インクレディブル(2004)、レミーのおいしいレストラン(2007)でもピクサー音楽を担当したマイケル・ジアッキーノ。このテーマソングでアカデミー作曲賞・グラミー賞を受賞しています。他にこのシークエンスで有名なのは、背景に描写されている移ろいゆく街の様子。年月と共に街が発展し、その後の工事の場面に繋がるという仕掛けですが、それよりも僕が気になったのは、カールのネクタイの描写でした。カラフルなネクタイをエリーがカールに結んであげるんですが、おそらくこのネクタイ、カールがお洒落にこだわっている訳ではなくて、エリーからのプレゼントだったんだと思います。だから、エリーが亡くなってからは、カールのネクタイはずっと変わりません。エリーの死によって止まってしまったカールの時間が、彼の服装にも現れていると言えます。
このシーンで最後に注目したいのは、「エリーバッジ」の存在です。カールにとってエリーバッジは、二人だけの冒険クラブの証であり、エリーとの絆の象徴でした。ですが、子供時代の出会いのシーンでバッジをつけてもらったのを最後に、結婚生活中は一回もつけていません。結婚中は結婚指輪があり、前述のネクタイがあり、何より二人の触れ合いがありました。では彼が再びエリーバッジをつけるのはいつか。それはそんな二人の触れ合いが無くなってしまった時、エリーのお葬式の時です。「至高の4分20秒」のラストシーン、思い出の青い風船とエリーバッジが印象的に描写され、これからカールが過去のエリーと二人だけの世界、孤独の世界を生きることが痛烈な悲しみと共に表されています。
直後のシーンは、それまでのカラフルなシーンとは打って変わって、カルメンの「ハバネラ」をBGMに、色のない灰色の生活が描かれます。ここではカールにとって、エリーのいない人生が、無味乾燥で、埃まみれのものであることがハッキリと描かれています。この前振りがあるからこそ、風船ハウスの鮮やかな出発シーンが際立つわけですが、この辺りの描写は結構スタンダードというか、ベタベタなんですよね。それを言い出すとそもそも話の入り自体が「子どもの時に出会った妻と共に老い、先立たれる」というベタベタなもの。ただ、この映画はそれが良いんです。ピート・ドクター監督はそういう日常をベタベタに描きながら、突如鮮烈なファンタジーを入れて来るのが非常に上手です。インサイド・ヘッド(2015)も最新のソウルフル・ワールド(2020)も、話の大筋自体はとてもまっすぐなんですが、ファンタジーの入れかたが絶妙に可愛い。「風船で空を飛ぶ家」なんて、子供が画用紙に書いたとしたら、めちゃくちゃ可愛いじゃないですか。そんな小さな子供の空想のような、例えば「おジャ魔女どれみ」の歌詞に出てくる、「不思議なチカラがわいたらどーしよ」とか「学校の中に遊園地」とか「痛い注射は柔らかいマシュマロにしちゃえ」みたいな、大人から見たら可愛いんですけど、子供にとっては真剣な空想っていう、ここしかないって塩梅のラインをついてくる。星野源さんも語っていたように、「いわゆる子供が生活している社会性から明らかに外れている歌詞を、すごく楽しく歌い上げていて、すごく勇気が出る。子供の時に聞いたらすごく勇気が出るんだろうな」と、そんなおジャ魔女カーニバルみたいな世界観が、この映画にも広がっています。
このように、ピート・ドクターのある種ベタベタなストーリー展開は、子供から見たらストレートに面白く、大人から見ると微笑ましくも懐かしいという、まさにディズニーらしい全年齢層を楽しませてくれる仕掛けなのですが、もちろんそれだけではありません。このベタさ・ゆるさは、「あぁ、この映画は子供向けの楽しい夢の世界の話なんだ」と、見ている大人たちを一瞬安心させ、油断させます。しかし、「カールじいさんの空飛ぶ家」も「ソウルフル・ワールド」も、語っているテーマは一貫して「人生とは何か」「人はなんのために生きるのか」という重厚壮大な問いかけです。このリアルなテーマが、微笑ましい子供の空想の中に突如顕現するのです。その際、油断していた大人たちは虚を衝かれるのですが、ここで効いてくるのが、主人公がカール「じいさん」だということ。観客は、大人である主人公と重ね合わせる形で、自分はどうだったかを無意識のうちに考えることができるのです。【ベタなリアル→子供の空想→大きなテーマ】という展開が非常にスムーズなため、説教臭さを感じることなく、誰もがストーリーを楽しみながら核心に触れることができるのだと思います。
続いて、肝心のテーマについてですが、本作においては「目的」というものがポイントの一つになっています。カールは絶望の淵で、二人で見ていた冒険の夢を思い出し、勇ましい音楽と共に伝説のパラダイスの滝へと旅立ちます。いつの時も、「目的」「ゴール」は人を奮い立たせてくれるもの。カールの場合は、エリーという彼にとって人生の全てとも言える存在を失っているわけですから、パラダイスの滝への冒険が、人生最後の目的だと考えています。逆に言えば、その目的を果たすためなら、あとはどうなっても良いのです。彼の冒険がどこか自暴自棄で、無謀なものに感じるのはそのためでしょう。このスタンスは、南米大陸に到着しても散見されます。ラッセルやケヴィン、ダグとの出会いを通じて少しずつ人間味を取り戻して行きますが、あくまで滝にたどり着くことが最優先。最終的には、目的にこだわるあまり、孤独な灰色の世界に逆戻りしてしまいます。結局のところ、目的を達成したかどうかは本質的な問題ではなかったのです。本作におけるヴィランのチャールズ・マンツも、「鳥を捕まえる」という目的に固執するキャラクター。その目的にとらわれるあまり、何十年も孤独に鳥を追い続け、人を信用することもできなくなっています。カールと同じく、止まった時間の中を孤独に生きていますが、カールと違ったのは、そこから引き戻す存在がいるかどうかでした。マンツは鳥を捕らえるために、子供まで手にかけようとします。ディズニー映画において、自分の目的のために他者を傷つける人がどのような末路を辿るかは、もうお決まりですね。ヴィランの最後としては定番ですが、いい落ちっぷりでした。
本作において、そのような「目的」と対比されるもの、つまり、最も重要なものとして語られているのは、何気ない「日常」です。例えば、ラッセルが父親との想い出を語るシーンの「あの縁石好きだ」「つまんない話だけど、つまんないことの方がよく思い出すんだ」というセリフは、彼にとって父親との日常こそが、かけがえのないものであったことをよく表しています。このセリフの前後におけるカールの表情の変化は絶妙です。子供のくだらない話だと侮って聞いていたものが、自分の人生をも省みさせるような、確信を突いた言葉であったことにハッとさせられます。こういう細かな表情描写こそ、ピート・ドクターの真骨頂。知らず知らずのうちに、観客と主人公の感情がリンクして行きます。またラッセルは、ケヴィンが攫われた際、自身の目的であったはずのボーイスカウトのバッジをかなぐり捨てます。これは、単に飽きたからとか、達成できそうにないからという理由ではなく、子供ならではの純粋な心で持って、目的よりも大事なことに気づいたからです。大人はしばしば、「一度決めたから」とか「ここまで来たのに後には引けない」とか、目的を神格化してしまい、本当に大事なことを見失うことがあります。なんのために生きるのか、大人は推進力を欲しがるあまり、人生にも「目的」を求めがちですが、一瞬一瞬を全力で生きる子供にとっては毎日が冒険であり、生きることそのものが目的なのです。先述の日常への言及然り、目的の放棄然り、ラッセルの言動はカールの眼前で行われ、最終的にカールに本作最大の気づきを与えてくれます。マンツと違い、カールが止まった時間から戻ってこれたのは、エリーとの過去はもちろんですが、ラッセルの存在が大きかったと思われます。ラッセルは、ストーリー上は足を引っ張るだけに見えますが、本作におけるカールの「導き手」の役割を果たしていたと言えるでしょう。
このラッセルの導きを経て、ついにカールは「わたしの冒険ブック」に続きがあったことに気がつきます。これまでカールが「いつかわたしがやること」のページをめくれなかったのは、自分はエリーを冒険させてあげられなかったと、引け目を感じていたからでしょう。しかし、エリーはそう考えてはいませんでした。カールと過ごした日々は、間違いなく楽しい冒険だったと、そして、感謝の気持ちを伝えるとともに、新しい冒険を始めてと言うのです。(病室のシーンをよく見ると、そこで写真を貼っていたことが描写されています。)エリーの愛情を媒介にして、止まっていたカールの時間が動き出します。二人で過ごした日常の価値を改めて認識したことで、カールの人生が再び色づき始めたのです。ページをめくるたびに、カールの世界に色が戻っていく描写は、涙なしには見られません。
本作における最大のメッセージは、「日常こそが冒険である」と言うことです。カールとエリーが過ごした何気ない毎日は、一日一日が刺激に満ちた冒険だったに違いありません。しかし、そうした日常の幸せは、過ごしている最中に気づくことは難しい。大きな目的、非日常的な冒険、そして「夢」の影に隠れてしまうからです。ディズニー作品における「夢」のあり方は、「プリンセスと魔法のキス」でも述べましたが、手放しで賞賛されるものではありません。むしろ、その近くにある「愛」に気づくこと、かけがえない日常に目を向けることが大事だとされています。「わたしの冒険ブック」に貼られていた写真を見たことで、カールはエリーの想いを知り、エリーへの愛を改めて思い出しました。そして自らの人生がいかに冒険に満ちていたかに気がついたのです。「愛への気づき」が、主人公を大きく変えるという流れは、ディズニーの王道パターンですが、この作品が素晴らしいのは、ここからまたカールの冒険が続いていくことです。これは、エンドロールも利用して徹底的に描かれます。人生が続く限り、冒険は終わらない。日常にある当たり前のものを、当たり前だと見逃したりせず、そこに美しさを見出して、一日一日を前向きに生きていく。そんな生き方が出来れば、人生はもっと輝きに満ちた、色鮮やかなものになるはず。「カールじいさんの空飛ぶ家」は、冒険に年齢は関係ないと言うメッセージを、誰しもが昇華できる形で、ディズニーらしく表現してくれています。
ファンタジーに満ちた大冒険を描きながら、日々を楽しく生きることを肯定してくれる、本当に優しい映画。思い出に浸りたい時、そこから一歩前に進みたい時、人生の節目に見直したい作品です。