私が「書生」になったワケ
三代目書生OMAと申します
私、3代目書生OMA、日本人です。
4代目書生NANちゃんが、日本人初の書生として3年くらい私の後に在籍されていたんですが、じゃ、日本人初代はどちら?となりますので、少々自己紹介させていただきます。
1996年4月から1998年3月まで、新大塚もとい、東池袋の文文先生のお宅にて暮らしておりました。当時のパートナーが東大の建築学科の大学院生だったということで、私もセットで住まわせていただいておりました。(その方が本契約の3代目書生ってことですねw)
1996年、今から29年前?!の東京、ご存じない方もたくさんいらっしゃると思いますが、古ーいアパートがたくさんありました。昨今の東京はタワマンもたくさんあるし、窓なんて2重アルミサッシが標準だし、オートロックの玄関とか標準装備じゃないですか。。しかしですね、1996年の東京は、タワマンなんてほとんどなかった割には、家賃は激安ってわけでもなく、かなり住むところに苦労していたんです。
東池袋に引越しする前は、中野区上高田というところにいたんですが、そこの古アパートは、アルミサッシじゃなくて、鉄?素材の、開け閉めするとき「ガラガラ」って大きな音がする重い窓の物件で、水道メーターがアパートの建物に1個しかなくて、毎月大家さんが水道代を割り勘して現金で徴収しに来るというようなところでした。
で、大家さんは部屋の中を見たいわけなんですよ、集金のたびに「きれいにつかってますね」とかいうの。私、ほんとにいやでいやで、なんでこんなところにしか住めないわけ?!と限界が来そうになったときに、2代目の書生の方が任期(確か当時2年契約だった)を待たずして、書生を降りたので、突然我々に東池袋に住むという幸運のチケットが舞い込んだのです。
6畳一間みたいなところから、東池袋の大きなおうちに引越ししたため、それも丸の内線の駅から徒歩3分くらいの立地!近所にスーパーもあり、新大塚の駅上にはマックもあり(今はもうない)、本屋もあり、休みの日には歩いてサンシャインにもいけるなんて夢のような暮らしでした。
当時、文文先生は、神戸芸術工科大学に平日はいかれていたので、土日だけ一緒に暮らしていて、平日は二人で大きな家に住んでいたのです。
というわけで、雨戸の開け閉めなんて、文句を言ってはいけない。と思うんですが、なかなかどうしてこれ結構大変でした。
昭和の頃建てられたであろう民家に雨戸はついているようで、、最近、都心で戸建ての空家が実に増えているんですが、雨戸ついているんですよね。雨戸が閉まりっきりだと「あぁここも空家なんだな」と観察しております。
ん?!そういえば上高田のボロアパート、雨戸なかった。雨戸は戸建て特有のものなのかな。。
文文先生が土日に東池袋の家に戻ってきているときは、先生が一番早く起きるので、雨戸をあけてくださってました。
先生は、とにかくあの家への愛に溢れていて、原形のまま何とか維持するためちょくちょく手入れをされていました。「現代風な素材(木材じゃなくて)で直してもいいんじゃないですか?」と私が言うと「だめです」とよくおっしゃってたのを思い出します。