忠誠と反逆①
丸山真男が言った、「タコツボ型」と「ササラ型」
西欧と日本の社会を比較してみたときに、西欧では、横断的なつながりを持ちやすい組織がある。
例えば教会、サロンなどである(ササラ型)
こういう組織は日本には、ない。あるのは分化した孤立した組織である。閉鎖的で、相互に干渉をもたない。さらに敵対は頻繁にみられる、という(タコツボ型)
丸山真男は1914年生まれ、50年代がその絶頂期で、60年代末に全共闘のゴタゴタに嫌気がさして、70年代に引き籠った学者であるが、その大正生まれの丸山の提示した図式がいまだにギンギンに有効というのは、呆れを通り越して恐怖すら覚える。
日本人のDNAに刻みこまれた呪いのようなものなのか?
この「タコツボ」は、90年代以後は文化論、オタク論、サブカル論等にアップデートされて、また流行ったけど、そのさらに劣化コピーみたいなのが、今でもネットでも幅を利かせている。
メディアで顔が売れた社会学者がしきりに「構造改革」とか「技術革新」とかいいたがるのも、煎じ詰めると、丸山真男なのだろう。晩年の「古層」という概念。「~なる」で止まった文明が、「~つくる」へのジャンプができない、という。
ともかく、この国は「なりゆき」の圧力が強すぎて、普通のことを普通に積み上げていくというような、そのような風土は一向に育たない。「~つくる」なんて夢のまた夢である。
せいぜい、弁が立つだけ輩が、党派間をスマートに立ち回って、地位とポジションを得て、そこそこに生き残っていくだけで、「ササラ型」、なんてものはない。
本来は、もっと全体的なプロポーションの感覚が重要なのだろう。まずはそこから…である。
今は、「何かが見えている」ふりが上手い奴がたまにいるで、どいつもこいつも、何も見えてない。
今年初旬の有事にしても、今回の大事件にしても、(2020年以降のコロナにしても、トランプ騒動にしても)ネット上の論客たちを眺めるにつけ、そのような確信と絶望を深めている。