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今日もXで勉強する(執筆中)

この十年ほどで「勉強」という言葉の意味が大きく変わってしまったと思っている。かつては、立身出世の門をくぐるための道具であり、難問に明確な答えを出すための訓練であり、生きる不安から逃れるための手段であり、影響力のある人にとっては仕事そのものであり、なによりも、それは思想の土台となるものであった。

一昔前は、勉強の意味は、もっとシンプルであり、ハッキリとしていた。今はどうか。あたかもそれだけでは真の目標にはけっして到達できないかのように、これまで使われてきた勉強というコトバの効力が減少してしまったのではないか。すでにそのような社会的コンセンサスが、すっかり形成されてしまっているように見える。

現代は情報に瞬時にアクセス可能であり、加速主義的に、意思決定を迅速にしなければならない状況が多くなった。熟考を無視してでも、誰よりもすばやく結論を出さないといけない。迅速な結果や効率的な手段を追求するのをよしとする気風が、問題を徹底的に把握し、深く突き詰めていく態度を、時代遅れのものとして、忘却の彼方へ吹き飛ばす。そんなことを考えたことはないだろうか?

2010年代以降、岡田斗司夫いわく「評価経済社会」化がとことん進み、既出の誰かがやってる議論を流用して、その土俵でいかに華麗に論点を整理してそのときそのときの最強に有利な立場を選ぶかというゲームに、いかに勝つか?こうした類いの、タコツボのなかでの知的ゲームの様相が濃く感じられるようになった。また、もしも、それありきの勉強が主流となっているのだとすれば、やはりその意味は完全に変容しているといわねばなるまい。

この評価経済社会の勝者となっているのが、ホリエモンやひろゆきら「インターネット第一世代」だが、彼らが台頭した2000年代は、情報技術の急速な発展・普及とともに、そのスピードと効率を追求する生き方が、若者の共感をあつめた。彼らは、その中でいかに迅速に行動し、成功を収めるかを実践し、やがてはロスジェネのカリスマとして象徴的な存在となった。

またメディアも彼らを時代の寵児として持ち上げ、その軽佻さをよしとしてきた。そのひとつの到達点だったのが2020年の”論破王”ひろゆきブームだった。ひろゆきの功/罪とは、ファスト・ジャーナリズムの完成形をかつてなかったような規模と強度で体現したことだと、わたしはみている。

彼の主眼は、世間に蔓延る「偽善」を暴き、あるいは「露悪」をコケにし、嘲笑することにあった(前者は辺野古ツイート炎上事件、後者はイキり系芸能人やタレント政治家との舌戦など)またその程度で事足りる知識力でよいのであれば、本格的な勉強などは不要であり、あの天来の大衆性と”1%の努力”があれば十分であることも証明してしまった。

このひろゆき的、またはポストひろゆき的なものが、今後も繰り返し現れるだろうことを考えると、それに対抗・抵抗するための方法が求められる。思うにインターネット以降の思想とは、底を割って見ればみんな同じだったし、きっとこれからもそうだろう。似たような思考パターンが意外なほど広がっている。表面的には多様に見えても、実は同じグループ内での違いに過ぎない(もっとも、言論界隈の内側からこのこと全体を見てとろうということはたいへん骨の折れる仕事である。しかし個別の識者の立場にたって見るならば、そのことが明らかになるだろう)

今日わたしたちが言語ゲームのなかで頻繁に目にする、分をわきまえないアイロニーや残忍さ、反社会性を帯びた出来事は、たんなるカタルシスを超えて、むしろ現代性を理解する手がかりとして、ひろく了解されているではないのか。しらぬまにそのような意識の変更がわたしたちの内部にもたらされたのではないか。

今更、デカい主語を持ち出してカウンターカルチャー仕草をしたいわけではない。なぜなら、そのことが及ぼしたいささか矛盾した結果のおかげで、以前のわたしたちが信じ込んでいた判断基準や諸観念が、じつはある特定の時代区分が作り出していた、特殊な心理傾向に過ぎなかったということを、完全に理解することができたのだから。

かつて公的な観念(形式的なものや暗黙のもの問わず)は盲目的に守るべきものとされていたはずだが、市民たちはなぜこれらの考え方をあまり深く考えずに、無防備に受け入れていたのだろうか。第一に、こう考えられるだろう。あたりまえに大人たちは正しく考える。その考えの正しさを確かめるためには、一般的に正しいとされる正解にどれだけ近づけるかの一定の幅に依存する。しかし必ずしもそのことを自覚できているわけではない。

またこれは思想や芸術・文芸の領域においても同様である。その結論においては、大人たちの「正しさ」に対する認識が、そのまま彼らの見えているものの中心に、知らず知らずのうちに入り込んでいる。

わたしたちは、誰かの発言やコンテンツにふれると、ひとまず「この人には何が見えているのだろう?」と考える。何かに自然と感情を寄せたり、またそこに必然を感じたり、その正体を見極めようとするのは、人間の本能である。そしてこの関心の向き方は必ずしも思想だけに結びつくものではなく、文学として、自己啓発としても、表現されることもあれば、他の思考の形式としても現れる。そこでは人が社会=世界とどう関わるか、そうした問題を考える試みが行われ、その回答は”深み”と表現されたりもする。

ひと昔前ならば、五木寛之や北方謙三、河合隼雄といった作家が、人生の智慧を授ける啓蒙家として支持されていた。今はひろゆきや堀江貴文は別格として、一部の批評家、チューバ―、金持ち、ネット論客たちがこの役目を引き受けているように見える。

ひろゆきブームの頃、彼の言動をまねる子供「ひろゆキッズ」(準構成員として全裸中年男性たちも多数含まれていた)のふるまいが話題になったことがあった。この現象は、いくつかのクエリーのもとに集まっているグループ(界隈では”住民”などと呼ばれているが)でも起きている。

ある特定のグループに属する人たちが、仲間内のやり取りやスタイルを固定化しようとする。それは単なる一つの態度というのを超え、まるで客観的事実であるように見せかけられることがある。しかし、傍からみれば普遍性を欠いており、総体として見た時に、社会を変えるような力は微塵も感じられない。

思想とは人々の認識を根底から変えうるものである。そこで取り扱われる問題は、普遍的である。この「解離」とは一体何なのかといえば、ひとまず、そのまま人それぞれの現実に対する認識の違いが反映されていると言えるのではないだろうか。

何年か前に、伊藤昌亮氏の「ひろゆき論」が話題になった。個人的には、ひろゆき本人をとりまく、自説に反駁する要素ことごとく無視したうえで「ひろゆきにはこういう思考の傾向がある」という一般化のもと「だからひろゆきを支持してはいけない」といった、一面的な論じ方だったという印象があり、そのため、ひろゆきの実像を正しく捉えられていないのではないか?という疑問が湧き、納得しがたい部分があった(ただネットに蔓延しているニュータイプのネオリベの諸相や弱者男性の分析は優れていたと今でも思う)

これはオーソドックスな評伝(もちろん、賛美の一本調子ではない本格的なものを)などを想定して言うのだが、ある特定の人物を理解し「描く」(活写)する「方法」とは、具体的には何だろうか?

ひとつには本人と粘り強く対話を重ねるなどし、対象の輪郭が浮かび上がってくる地点まで本人の「視線」のフォーカスを合わせて調査するやり方があるだろう。次に、その人の生涯で起こった重要な「事件」や「ターニングポイント」をいくつかピックアップして、その部分に注目することで、全体像を再構成するやり方がある。あるいは本人の(公的なともいってよいが)全体的なイメージを、より大きな全体のなかの部分として措定しなおして、分析してみるやり方もある。

ほかにも有効なアプローチがあるのかもしれないが、ともかく、完全を期するならば、考えつく方法のすべてを駆使しなければならないだろう。いずれにせよ、ある特定の人物の全貌を理解したいと思うのならば、必要とされる努力は、生半ではないはずだ。

なぜ、かような方法論的自覚を伴わなければならないのかといえば、そうでもしない限り、とりとめもなく論争を呼ぶことになり(...わたしこそが一番○○を知っている論争が勃発する)、収集がつかなくなるからである。だから、かりに思想の面目が試されるとすれば、まさにこの歴史的瞬間に際して、であるはずだ。

ゆえに、伊藤氏の論に見られるような「敵」のその知の欺瞞性を暴くという名分の下に、バッシングの弁証法たる”社会学”を駆使しつつ、ある人物の一側面を解体していくやり方を「知的誠実」とはいわないのではないか、というのが個人的な肌感である。その言説のスタンスが、たんに「俺らの党派が最高」(あるいは、原理主義ってアホだよね的な)という「党派性」の確認に留まることは、上記の原則に照らすまでもなく、明らかだからだ。

実際問題として、これらの「党派」はたくさんあって、じつに多様である。あまり自覚的に書いているつもりはないが、この文章で書こうとしている内容も、なんらかの「党派」に属しているはずで、他にも、わたしがアイデンディティの問題を考察する際によすがとした党派があるはずであり、「生まれてこないほうがよかった」という党派があり、性別なんてものは存在しないという党派や、科学的にいえば性別はあるに決まっているという党派もあり、全宇宙規模では、そもそも人間なんてものがいない前提の異星人のふるまいが支配する党派だってあるはずだ。それぞれの党派によって現実認識がまるで異なってくる。

これは全体のみならず部分にも言えることである。ある部分の在り方はきわめて多様で、それぞれが多様なので、何が善で何が悪かはおのおのの部分で違い、なんらかの部分の現実の在り方で対応している。より直截に表現すれば「自分達の党派を守るために攻撃しあっている」のである。

かつて、マルクス・ガブリエルは「誰かがユニコーンを信じるのなら、その人の世界にはユニコーンが存在する」と発言したが、このような主張は、普通には受け入れがたいものである。というのも、わたしたちが見ている現実は一つしかない。したがって、どのものについてもそれが属している世界はただ一つであると考えているからだ。もし、このことを否定する人間がいるとしたら、それはいつだって概念を深めたり拡張しようとしたがる哲学者くらいなものであろう。

もっとも、たとえこのように思想(ゼロ年代以降のものの言い方では”批評”もそこに含まれる)とは明確に独立に存在しえるにしても、それが人の実存に関するある種の世界観に関わる場合、その独立した地位を維持することは困難である。彼らは、あくまで皆の共有するところの概念=グループ=党派を頼り、表現し、それに正当性を与えようとするだけだ。

結局、このようにして思想は、ある時代に広く行われている人生の解釈に、もっともらしい”佇まい”(そうすること、そうふるまうことにより賢く見える何ものか)を供給するだろう。とはいえ、その現実認識は、どうしてもその表現形態である、かの洗練された・膨大な概念の体系とは、根本的に異なるものであり、断じて混同してはならない。

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