「一九七○年代の美術とは何だったのか?」という文章で、彦坂はこう書いている。
ここで”文明的展開のダイナミズム”と表現されているものとは、後期の仕事におけるアイコンであり、すくなくとも隠語レベルでは、芸術(村)界の内部言語に深く浸透しているものの源となっている。そのアイディアとは「文明」論による分析である。
<原ー文明> →
<文明> →
<反ー文明> →
<非ー文明> →
<無ー文明> →…
この「文明論」は、現代アートを理解しやすくするためのものであり、そのほとんど純粋形態としての極度の「よわさ」には、その他のアーティストには到底およびもつかない、圧倒的ポピュラリティがあった。
うがった見方をすると、この「文明論」は、体制破壊的な理論として見ることは可能かもしれない(事実、筆者もモロに感染した若者の一人であった。彦坂と直接、間接に接する時に、その可能性は常に留意する必要があるだろう。並外れた人物の影響を受けた場合、それを払いのけるのは並大抵のことではないと感じる)
もっともこの理論、そこまで革新的というわけでもない。歴史の推移とともに人間理性が仮象を作り出しいくつかのタームを経て反復(回転)するというカントが提出した世界観とも似ているし、フーコーをはじめとした「人間は何らかの社会構造に支配されており決して自由に物事を判断しているわけではない」と考えるポスト構造主義を連想しないわけにはいかない。
「約7年ごとに言語ゲームは変わる」と主張する宮台真司ともダブるし、デヴィッド・ボウイにとってはそれ自体が生きるモチベーション(僕は大河がサイズを変えるのを見ている/Changes)である。またGベイトソンの「演繹推論」にとっては、それはある対象について、どれだけそこから多くの事(=言葉)を言い表せるかである。
<続>