リトル・ブレイン・ヒューマン
17歳の夏の思い出である。家出をして初めて東京に来た。
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降り立った駅は中野である。始めはブロードウェイに行ったと思う。無計画にも、宿の当ても無かった。
ブロードウェイが良いのはぶっきらぼうな接客だろう。あの無愛想さは、人間の業を肯定している。中野の民度の高さによってのみ成立する。しかもなお、温かい魅力がある。
それは日常に愛情を持てる瞬間である。そればかりではない、あの通りの小さな店々程、客の購買意欲を殺ぐ場所は他に無い。それら陳列された商品は殆ど、マニアックというのを通り越してただの装飾(!?)に近いレヴェルであり、各店は商売が機能しているのか、謎である。恐らくは、ニッチな層の顧客で成り立っているのだろう。
夕方になると、いつもの夜の街の匂いが鼻を掠め、往来は人の頭が忙しなく動き始める。裏手には細い路地が何本もあって、眠たそうな、或いは憂鬱な顔をした人(一括りに言ってしまえば、それらは全て水商売をナリワイにしている連中である)が非常階段から建物の中へ入って行く。彼らは毎日、怒鳴ったり怒鳴られるのが仕事である。
通りにごった返している客層は中央線沿いの、若しくは、新宿、高田馬場辺りに勤めている人達だろう。0時までの、暫しの逸楽と言ったところか、憂さ晴らしに余念が無い感じだ。夜中になると、必ず同じ中年男が顔を出す。その傍らには、前日とは違うキャバ嬢がいる。或いは、毎日同じキャバ嬢と連れ添って来る別の中年男もいる。彼らは、もう何十年もそういう生活をしているようだった。
始めから東京に住んでいるような人からすれば、想像がつき難いかと思うが、田舎者の僕の眼にはイメージの光暈が起こっていた。今まで生きてきた中で最高の風景だった。あの頃に比べると、現在の中野の往来は閑散とした印象があるので、少し寂しい。でも又いつか中野に戻りたい。あの日々から、もう十何年も経っているが、あそこが僕の本当の故郷のような感じがするのである。
その日は結局、暇を潰す為に「ぽちたま文庫」という古本屋で棋木野衣著「テクノ・デリック」を壱百円で購入して、そのまま線路沿いのアパートの最上階の物置に忍び込んで暖をとりながら、一夜を過ごす事にした。
そこは恐ろしく汚い所で、住人に見捨てられたモノ達が犇めき合いながら、再び使用されるのを何時とは無く待っていた。電灯は点滅しながら、錆びたオーブンや、バスアイテムや、パーティグッズやらを照らしている、誰からも顧みられずに。持主はどうせ俗にいう”アパート流民”だろうが、そこには小市民的幸福の痕跡ともいうべきものが燻っていた。
僕はと言えば殆ど精神的ホームレスになっていたが、この孤独が心地よかった。寧ろ、それまでずっと胸を煩わせていた欝を取り除いてくれるのは、孤独だけだと思った。
なんの当てもなく地元から飛び出してきた。頼りは、テレアポのアルバイトで稼いできた金だけだった。当時は、どこに移り住もうがテレアポでも何でも、アルバイトをすればどうにか暮らせるだろう、とテキトーにたかをくくっていたのである。
しかし17歳の僕の世間知は限りなく低いのであった。中野に来て、早々に取り組み始めたのは、プロのホームレスになることだった(そういえば、小学生の頃、授業参観のときに「僕の夢はホームレスになることです」という作文を読んで親を泣かせたことがあったな。ガハ)
雨風がしのげる場所を求め、中野周辺を徹底的に練り歩きだした。思い出したらキリがないが、とにかく壁と屋根のある空間を、あちこちを探し回っていた。中野の住宅街、サンプラザ周辺、東中野方面や、中野~高円寺駅のガードレール、途中で見つけた「たかはら公園」、内部の一部がむき出しになった一棟の架空の建造物、、、
その間は、先に述べたアパートを秘密基地にしていたが、3日目に住人に見つかってしまい、通報される前に出ざるを得なくなった。ウロウロしてたら東中野方面の中野図書館より先に、とりあえずは寝泊りができそうな公園があったので、そこのアスレチックで寝泊まりした。「パークマンション」と勝手に名づけたのを憶えている。とにかく自分のハウスが見つかるまで、雨が降らないことを祈った。
結局、その数日間の間に、解決策を見出したのである。それが漫画喫茶であった。そんなもの地元にはなかった。というか、インターネットすら使ったことのない田舎の人間だったので、僕が受けた衝撃たるや、筆舌に尽くしがたい。寝泊まりも出来て、ネットもしたい放題!(そのころは、まだ「ネットカフェ難民」という言葉もなかったのである)
しかもゼロ年代前半のネットその他動画コンテンツ業界の無法地帯っぷりは、今の若い子には想像ができないと思う。
ときどきネットのスレにゲリラ的に貼り出されている ‘見るな危険‘系のハードコア映像にはいつもうんざり させられるが、当時の僕は何も知らない田舎者だったのである。
それまでの人生で見たこともないような、超衝撃映像を目撃した。それはサブインシジョンと呼ばれるずばりペニスの切断で、直に形状のリフォーム及び性感帯を強化たらしめる
一種の人体改造である。海外では一部に熱狂的ファンがいるのだとさ。 本来ならすぐに消してしまうのが身のためなのだろうが臭いものには蓋をせずにむしろもっと嗅いでしまうのが 青春17歳である。というか僕の性分らしく、右手の指はクリックせずに静止していた。 そんな複雑な心情も意に介さず、映像は進行していく。 最初はまだビギナーな‘ミートトミー‘なる亀頭部分の切開手術が数パターン、矢継ぎ早に映し出されていく。これでも十分気持ち悪い。
その次は'パシャルサブインシジョン'―竿部分の切開― 'ジェニタルバイセクション'―これは完全真っ二つ ―等々、次第に加速度に陰惨ぶりが増していく。
しかもこの連中、みんなohoooとかいって喘いでいるのである。完全にラリッてやがるぜ! ここらでグロッキーになりギブアップした。それでもまだ動画の半分ほどしか見ていないのでこの後どう いう展開をみせたのか、想像するだけでも空恐ろしい。いやはや、ドエライもん見てしまったわ。こういった有害極まりない下劣URLは見ても一文の得にもならないと痛感したのであった。
思っていた以上に、家出は大変だということをようやく理解した。漫画喫茶で寝泊りするたびに、財布が大出血するし、住所不定の者を雇ってくれる職なんかあるのか?分からないし。1日1食しか食べられないので、めちゃ腹が減る。
「あの頃」のことを思い出すと、まず蘇ってくる感情は「痛み」である。それまで親に守られて、ぬくぬくと暮らしていた人生が粉粉に崩壊したという痛みである。
土地勘もなく東京の愉しみ方なんぞわからん。8月で糞暑くてだるいし、着替えも無く、公園の水道で洗いまくった服がヨレていた。鮮明に覚えているのは、アーケード「中野サンモール」にあるパン屋の、でかくて安いだけのバケットを買って、中野サンプラザの駐車場でボリボリ食べてた記憶である。今も、あの界隈にいくとみじめで苦い感覚が蘇ってくるので、なるべく近づきたくない。
新宿まで歩いていこうとしたが散々だった。東中野から新大久保方面の線路を辿っていけば新宿に着くはずだと思い立ち、夜中に出発。ところが、適当に歩いていって目的地に着くほど、東京の道は甘くない。線路に沿って道が続いているわけではなく、北新宿あたりで迷路のようになって入り組んだ路地になっていた。真っ暗で道順が何も把握出来ず、発狂しそうになった。
すでに感情が痛めつけられて、ボロボロな心境だった。朽ち果てたその寂しみに涙が落ちた。 それでもいつか今の暮らしを捨ててそこへ帰るのだろうか、と僕は思った。 僕は、この涙を出させている、その心のもとへ帰るのだろうか?
夜の東京の、高層ビルの景色が、その美しい姿が幻のように目の前に現れ、僕は自分の実体を実感するのだった。東京の人は、どんなふうにこの景色を眺めているか。東京の人、、、道を歩いている他人はどこか他所を眺めていた。もう一週間くらい、誰ともしゃべっていなかった。
男が一人ぼっちになると、ろくなことを考えないものだ。孤独は男の子には毒だ。泣いた日のことは憶えている。それから何日間か、どこを徘徊していたのか、何をしていたのか、きれいさっぱり記憶が飛んでいる。心の支えは、目の前に広がる美しい東京の風景だけだった。
ホームレス生活で昼夜が逆転してしまい、夕日は朝日に、朝日は夕日に、感じられたものだ。こんな記憶がある。ある晴れた日に眼が覚めた。風が気持ちよく、死から蘇ったような気分だった。西新宿あたりの公園のベンチで寝ていたのである。
草木が生えっぱなしの汚い庭の景色だった。
顔を上げると都庁の立派の姿が眼に入った。それからまた眼を下ろすと、都会から取り残されたような狭い公園で寝ている自分がいる。掟で、ここから出ないように思われた。
時折、不思議な夢を見ることがある。といっても、夢は大体不思議なわけだが、何が不思議なのかは、うまくいえない。公園のベンチやらで雑魚寝してたら、僕のもう一人の兄が出てくるという夢を見た。その人は、現在は古びたアパートで一人暮らしをしている、というものだった。 家の中は汚くて、ファミコン?のソフトが散乱していた。
「どうして家出なんてしたの?」と、僕が尋ねたら、彼は悲しそうな顔をしていた。でも、どうして僕が、その人を「もう一人の兄」と、認識したのかは、謎だった。
目が覚めた後、しばらくぼーっとしていた。
一気に幼かったころの記憶が蘇った。それは昔の実家に住んでいた養子の長兄である。その実家はとり壊されてもうない。しかも、長兄は、、、母親は兄のことが大そうお気に入りだったらしく、その後に生まれた三男の僕に、養子の兄と同じ「S也」という名前をつけたのだ。ということは、この世にもう一人の僕がいる!
ちなみに、養子の兄の行方はわからない。母親と、このことを話したこともない。
でも兄のことを思い出して、急に生きる元気が湧いてきた。その感情を、なんと言葉にすればよいのか?きっとどこかの街で兄は暮らしていて、自分もいっぱしの男として成長すれば、いつか会えるかも、と想ったのだった。僕と同じ名前をもった兄も、昔、同じように家を出たんだ。僕だって出来ないはずがない。
無根拠に気が大きくなって、かえってそれが功を奏してよい結果になるということが、ままあるのではないかと思う。気が大きくなると、人生のたいていの問題は解決すると、どこぞの偉い先生もいっている。もしかすると、無意識に「このままでは死ぬ!」という生命維持の本能が働いて、あんな不思議な夢を見させたのかも知らん。ともかく、あの兄の記憶の蘇生を経てからというもの、僕は「自分はきっと社会でもやっていける!」というスゴイ馬鹿な万能感が漲っていた!
ちょうど時期を同じくして、中野5丁目にいい塩梅の空き家があって(昔は小唄の先生の家だったようである。)そこに寄生するようになった。住所を詐称して、ばんばんアルバイトの応募をし出した。はじめにアルバイトの面接にいったのは、板橋駅の近くの広告代理店だった。村上龍みたいな顔の、イライラした調子の社長と話をしたが、3分くらいで「君、酷いね」といわれて追い返された。
次は中野の薬局にもいった。そこでも店長の癪にさわったのか「舐めんじゃねーよ失せろ!」というようなお言葉を戴いたと記憶している。例の万能感のせいで僕は、なんかだかHighなんだけど、話は支持滅裂、いわば頭の回転だけが速いキチガイ、という薬中と同じような症状が出ていたのである。
それから、、、社会の厳しさ、をたっぷり味わった。童貞卒業の前に社会の厳しさに入学して、何だか飛び級したみたいな気分だった。酷え目に合い過ぎて、逆にあんまり思い出せないくらいである。
中野の居酒屋に雇ってもらえたけど、いじめまくられて辞めたり、埼玉の川口の薬局にも3日くらい勤めてクビになったりした。(IQが2桁しかなさそうな店長に、レジの金を盗んだだろ!?とかイチャモンつけられて、その場で辞めた)
新宿のグリンピースっていうパチンコの上にある居酒屋にもいったけど逃げ出した。中野の繁華街のど真ん中にあるGグループという、老舗のキャバクラに直接電話して、店長に直談判したら、すんなり雇ってもらえた。面接のときに「君は稼ぐようになる気がするな」という言葉を頂いた。しかし、、それからドエライ目に合うことになった。 この店長は添田という人で、元ガソリンスタンド店員からGグループに入社して、1年で店長にのし上がった人だった。一回見たら絶対忘れない怖い顔だった。コメディアンの梅垣義明に似ているのだけど、あの顔より眼光をもっと鋭くしたような、すごい人相。そして後ほどすぐに判明するのだが、この人相通り、実際鬼のようにオッカナイ人だった。
面接した次の日から出勤した。着替えを貰ったときに、着方がよく分からなくて困った。18歳と偽称していたのだけど実際は17歳だから、、、ネクタイの締め方すら知らない。 その時、僕は困り果てていたのだけど、たまたま着替え部屋に居合わせた「キョンキョン」というあだ名のキャバ嬢にネクタイを結んで貰った。ありがとうキョンキョン(涙)キョンキョンは「まったくこの子は〜、、」と呆れ顔になりながらも、結んでくれた。
キャバクラのボーイという仕事は、基本的に夕方から朝方まで、ずっと立ちっぱなしの仕事なのだが、初日は何が何やら分からないまま、あっという間に12時間が過ぎて終わったというより他ない。
まーったく、記憶が消去している。言われるがままに酒を運んでいただけで終わった。 大変だなあ、と思ったのは、店内の卓のみならず、「事柄」「客の属性」「客のオラつき度」などを細かく番号化してて、すばやくトランシーバーで連絡し合うこと。
内容を客に悟られないようにする工夫だ。このコミュニケーションが難しく、全然出来る気が起こらず、軽くパニックになった。僕は番号表をもらって、その日に全部暗記した。あとサービスのメニューとか料金体系とか、覚えられそうなものは全部暗記した。今思うと恥ずかしい。これは不安の裏返しだったのだ。そんなものは何の役にも立たないということは、その後、すぐに分かった。
初日に、すごく鮮明に覚えているのは、添田店長の歩き方だ。プロレスラーの武藤敬司みたいな、膝が故障した人ッぽい歩き方だった。やや、がに股気味に、のそっと歩く。これがいやに迫力があるのである。添田さんはトランシーバーで、裏部屋で、パントリーの中で、調理場で、レジで、客が見えない場所の至る所で店員を詰め倒していた。 いや、後で分かったのだけど、非常にサービスに対して意識が高いだけだったのだが、最初はその常軌を逸している暴力感に、度肝を抜かされた。
詰められると、こっちは黙るか、言い訳するか、とにかくあれはキツイ。「ちょっと来い」と裏部屋などに呼ばれて、「なんなのあれ?」という風に、添田さんが気に障ったことを口実に詰められる。「すいません」も「言い訳」も「はい」も「ダンマリ」も、どんな態度でも、何を言ってもダメ。どの選択肢でも怒りが倍増。「徹底的にやるぞ、、」というような感じで延々と怒鳴られ、詰められる。あんなん、たまったもんじゃない。ターゲットになったら、オシマイ。
中野5丁目にある空き家の玄関を住処とするようになって、すっかり根を下ろしていた。
ただ、この空き家、今思うと相当ヤバイ場所だったと思う。もともと、小唄の家元のおばあちゃんが住んでいたらしいのだけど。というのも、その家元の仏壇があったのである。おそらく孤独死だったのだろう。全ての家具が放置されていて、とてもじゃないけど家の中にドカドカと踏み入れる勇気がなかった。仏壇の直ぐ隣の箪笥に、首の長い猫の置物があったのが、忘れられない。夜中に光を当てると、見下ろしてニヤァ~と、こちらに嗤いかけてた。家中そこかしこに、風景の写真が飾っていてた。
あの頃は、仕事が辛くて、帰ったら寝るだけだった気がする。だいたい週1の休みは、頭が痛くて一日中寝てた(これ、ウィークエンド頭痛というやつ)。休日に限ってこんな目に遭うなんて。お陰で夕方ごろに起きて、翌日朝方まで全く眠くない。むしろ気分は冴えていく一方で、困るということが頻繁にあった。
加えて、換気扇も何も無いのでホコリだらけ。四面楚歌であった。もうここまで来ると外の公園のベンチで寝ようかな、とカジュアルに思う。傍から見れば、完全に基地外くんだった。 しかも、部屋にカーテンが無いので、朝は直射日光によって目が覚める!丁度、鈴木その子の顔面ライトアップ状態。 「お!、、ぅおぉぉぉぉ、、」とゆがんだ顔をして起きて、立てかけてある古い鏡に僕のゆがんだ顔が映し出された。基地外だ!
そのころの唯一の楽しみと言えば、食事ぐらいなもので、おもい返せば子供の頃、大人になったら毎日豪奢三昧したい、と願っていたものだが、その名残か事食事になると、僕は完全に豚みたいに我慢が出来なくなるのだった 。スーパーでさくらんぼ1パックを、自分の給料で買って全部食べる、という喜び。
中野の繁華街は、ラーメンだと「青葉」「味噌一」を筆頭に激戦区であり、その他、中華、イタ飯の老舗などがひしめき合っている。ラーメンに関しては「青葉」のつけ麺が一番好きだった。
お気に入りのイタ飯屋では、オマール海老の蒸し焼きのようなやつをよく注文していた、3800円也 。そのままでかいザリガニにコッテリソースをひっかけただけの見た目のみならず、取り合わせ無しという、この豪快さ(3800円も出したのに)然し侮ってはイケナイのだ。仄聞するに、オマール海老は世界最大の海老なんだとさ。実際でかくて食い応え◎(小食の人は、半分ぶつ切りにしてもらった方が良いかも)触感も素晴らしく、口の中にいれると、な、なんて元気にプリプリしてくるんだ!! おつまみは4種類のチーズで1200円也!おいしいもんがあったら即決!ブッ、ブヒィ~。
なお、この店でも陰惨ないじめを受けたのは、いうまでもない。これだけ、どこにいってもいじめまくられるのは、どー考えても僕にその咎があるというべきである。この店でのいじめの首謀者は「金田」という20代半ばの男である。いやはや、こやつの性悪さにはかなり堪えた。しかもキャバクラの仕事なんぞというものは、他人の揚げ足を取ろうと思えば幾らでも取れる。
一挙手一投足、何をやっても金田とその一味にイチャモンをつけられた。「灰皿を置く音が五月蝿い」「お前のパントリ(酒を作る役)が遅い性でみんな迷惑している」というような小言を、目が合うたびにいってくるので、ウザッタクテ仕方の無い。金土日の超忙しいときに、トランシーバーで「早くしろよボケ!」とイチイチいってきたり、ムチャクチャな接客を命令して(客を入れたいから在席している客を追い返せ!とか)「そんなの出来るはずないでしょ...」と返すと「お前って客と店と、どっち側の人間なの?」などといって、僕を板ばさみに陥れて、グルの連中と嗤いあって楽しんでいる等など。やりたい放題されていた。
いや、しかし正直にいうと、僕の性格のほうにこそ、他者から暴力性を喚起させ、いじめを引き起こす病理が潜んでいたのであった。
ある日、僕はこのクソ金田に法令線をくっきり浮かびあがらせた憎たらしー顔で「あんたの顔、気持ちわりぃんだよ☆」といってしまったのである。
大失敗。この事件が、憎しみの焔の源になっていたのは明らかである。こんな小僧は痛めつけられて当然。息が詰まるような雰囲気のなか、朝から晩まで働く生活がそのまましばらく続いた。転機は添田店長が六本木に栄転することになった時である。その頃には僕は添田さんにはムチャクチャ可愛がられるようになっていた。つまり添田さんがいるから、働いていたようなものだったのである。あっさり辞めることにした。
こうして、いつのまにか月日が過ぎた。2003年から4年にかけて、すっかり中野の街に潜りこんでいた。あの時期は、その時間の大半をキャバクラの店の中で(四六時中立ちっぱなしで)過ごしていたことになる。毎日の楽しみは、仕事からヘトヘトに疲れて帰ってきて、温かい布団に入る瞬間だけだったような気がする。誰とも仲良くなれなかったし、致命的に社会性が欠如しているので、それを改善しようとする、人間らしい知恵が何も浮かばない。
友達が1人も出来なかった。そういえば、ある年上の同僚と何気ない会話をしているときに「お前、友達が欲しいだろ?」と皮肉っぽくいわれたことがあった。僕ときたら他人との距離のとり方がオカシイのだ。誘った気の強いキャバ嬢にデート中に「キモイ」とはき捨てられたこともある(ぜんぶこっちが奢ってるのにも関わらず)「お前は一生童貞」ともいわれた。しかし、これっだけ言われたい放題というのも何らかの才能なのかもしれん。
寝るときにウォークマンで音楽を聴いているときが一番、幸せだった。その頃、何千回も聴いていたのがSly & the Family Stone の「暴動(There's a Riot Goin' On)」というアルバムである。マイルスデイヴィスを凌ぐ天才と讃えられるスライの哀しい歌声が素晴らしい。それも、ただの半端な哀しさじゃない、ウンコまみれでむせび泣いているようなクッソなさけない哀しさだ。アルバムのなかに「Just Like a Baby (赤ちゃんみたい) 」というワルツ調の曲があって、心に染み入る。曲中の「赤ちゃんみたい、、赤ちゃんみたい、、」というルフランが、グイグイと聴く者を自閉へと誘う。
キャバクラのシフトで「半休」という、まる12時間ほど自由の身になる休憩があって、そのときは高円寺にあるレンタルCD屋に歩いて通っていた。”スモールミュージック”という珍しいCDが揃っている店があったのである(いまはもう潰れている)。当時、90年代の代表的な批評家である佐々木敦が物した「ex‐music」と「ソフトアンドハード」という2冊の大著に記されているアルバムを、片っ端から借りて聴いていく、というのがマイブームであった。
スモールミュージックで借りたアルバムをさっそく聴きながら、中野から高円寺の間をテクテク歩いていく。音楽如何によって風景の印象も変わる。同じ道を歩いていても、moodymannの「Black Mahogani」を聴くのと、じゃがたらの「南蛮渡来」を聴くのとでは、まるっきり見えるもの、機微が違ってくる。江戸アケミの歌はやけっぱちな調子で、気分はファンキーなルンペンプロレタリアートといったところ。ジムオルークの「ユリイカ」は、もっと夢想的、ロマンティックな気分に浸れる、夜の音楽である、中野の住宅街にある小さな公園がマッチする。
あの頃はそういえば、若くて足腰が丈夫だったな、とも思う。12時間つっ立っている仕事を終えて、店を出たら(そのあとに寝たら時間がもったいないから)寝ずにそのまま遊びに出発。それから中央線沿いの街街を歩き渡っていた。中野から西荻窪の古本街まで歩いて往復するのもへっちゃらだった。
中央線沿いの駅はどこも線路付近だけが栄えていて、いったん線路から離れて奥に行くと田舎の住宅街と変わらない。案外コンビニも少ないし、延々と道路と一戸建てばかりの風景。バスだけが頼りという感じで、ほんとなにもかもが、僕の人生とは徹底的に無縁だ。もうあそこらへんには、今後二度と立ち入ることはないだろう。
荻窪も何故かよく立ち寄る街のひとつだった 。あそこの商店街には、穴場的な美味い飯屋がたくさんある。「あもん」という中華屋のチャーハン、餃子の「宝舞」、名前は忘れたが、焼き魚の定食が美味しい店もあった。NTTデータが入っている藤沢ビルという大きいビルがあって、その隣にあったラーメン屋の丸長というのも、むちゃうまかった。独特の深いコクのある、ラーメンとちゃんぽんの合いの子のような一品。通っていたのはもう15年くらい前の話だが、まだあそこはやっているのだろうか。
Gグループで稼いだ金があったので、少しの間はブラブラと遊んでくらしていた。しかし遊んでばかりいると、さすがに嚢が空いてきて心配になってくる。ところが、そろそろ働いてみようかなと思い立ったが矢先に、自分は何をしたいのか考えておらず、サッパリ自分自身のことが分かっていないということに気づいて、ハッとした。
失敗だ!
なんとなく「自分が何をしたいのか?」については、考えてはいた。しかしそれは田島貴男よろしくカルトスター的な作曲家になりたいだのなんだのと。そして、それらが中二病的な妄想であると、一切逡巡しない程の馬鹿にもなりきれない。かくして現実的な人生の歩みは一歩も進んでいなかったということに、俄に気づきはじめたのである。Gグループに飛び込んで就職した頃の自分、つまりホームレスだった頃とたいして変わっていないという現実が胸に突き刺さった。
もう一つ、同じ頃に世間シラズの手痛い大失敗をした。中野の賃貸業者に騙されて、住人全員が中国人という忌々しいアパートに引っ越してしまったのである。そこは東中野の窪んでいる区画にあり、家賃が8万以上もするのに、ゴキブリの巣のような物件で、しかも四方が豪邸に囲まれていて日当たりがまったくなかった(賃主はその豪邸の一つに住んでいた)7月に引っ越して入ったので、ゴキブリシーズン真っ盛り!いきなり勇気リンリン・パワー全開の好戦的なゴキブリ一個師団との死闘を繰り広げた。2週間で10匹くらい殺したと思う。
クソ業者は「居住している人たちも善い人たちばかりですよ~」がいっていたのを覚えている。何が「善い人」かよ!善い人かもしれないけど全員、中国人じゃないか!踏んだりけったり。あの頃の僕は、顔色が悪かったと思う。
この僕の独特の性質「了見が狭いのが仇になってエライ目に遭う」ということについては、今日に至るまで未だに治っていない。何せ誰何人の意見も耳に入らん馬鹿者なのである。それで向こう見ずの蛮勇として功を奏して、何かしら体験を得るという側面もあるにはある。1年前に、こんなとんでもない目に遭いまくると知っていたら、家出なんかとても出来なかっただろう。とすると、もしかすると了見が狭いということは、短所ではないのかもしれん。
(続)