彦坂尚嘉論(1)
去年、YOUTUBEで彦坂尚嘉のヴィデオを見た。
美術史家の富井玲子氏が、彦坂の初期から中期の代表作「ウッド・ペインティング」までの芸術的変遷を詳細に解説している、というものだった。
印象的なポイントをひとつを挙げると、彦坂は美術における抽象の兆しは1920年代にすでに見られる、と言っている(ところが、多くの人々はそうではなく戦後に起こったと誤認している)
じぶんの芸術理解の解像感は大丈夫だろうか等と、あれこれ自問自答しながら見ていたわけだが、ひとまずは芸術の理解に関する議論が中心だった、と言ってよいように思う。
「ウッド・ペインティング」については実物を見たい願望がある一方、ゼロ年代以降の展開(=格付け)にこそ、彼の真面目があるのではないか、とも感じている。
フロア・イベント(1970年)で絵画を解体し、様々な紆余曲折を経て、またペインティングに戻り、展開させていく。「矛盾を抱えたまま行っていた」とも告白している。
この葛藤は、富井氏の説明のなかにも簡潔に表れていたと思う。
彦坂はその性質上、思考の飛躍や、秘教性を許さず、理解を得た後にまた葛藤し、一歩ずつ前進していくような、この志向性(動画の中の用語を使うと、絵画思考の強さあるいは深さ、という言い方で表現されている)の原点として、富井氏は中原佑介や高松次郎の名を挙げたのだが、個人的にはある種の満足というのか、納得感があった。
1965年に中原佑介が言ってますけどもね。いちばん素直に絵画とか彫刻とかってのはもうありえないって。だからいい感覚を持ってるというような基準はもう通用しがくなってると。例えばどういう絵画がいいか悪いかね、あるいはどういう新人がいいか悪いかっていう時に、いい感覚を持ってるっていうのは、よく聞くでしょ。そういう言葉はね、それはあの評価基準ではもうありえないと(65年に)言っていて、むしろ絵画思考の強さあるいは深さといういったものだけが作品を支える柱になるっていう形で65年に高松さんの影の絵を中心に表現してらっしゃいますね
後日、ヴィデオの「後編」がアップされた。
前回、富井氏が喋っていた視座が「90年代以前」だとすると、今回のは「90年代・以降」である。
戦後から現在までの美術の動向、構造といってもよいが、戦後の「芸術」の解体と脱構築へ、そしてバブル崩壊・90年代を境に、デザインから狂気へという、ふたつの大きな流れがあった。この変様が生じるとき、同時に、芸術の遺伝子組み換えと呼びたくなるような捻じれが生じた(これについては後ほど詳しく考察したい)
個人的に、ごく短い期間だけど、交流した経験からこう言うのだけど、まあ、警戒心の強い御方であり、世間ズレしてないというのか、やっぱり真性の芸術家だよなあ、という想いはずっとある。
ヴィデオのなかで、かつての親友だった清水誠一について、何度も裏切られ、彦坂を潰しにかかってきた、という話が出た。このエピソードひとつとっても、さもありなんというか。おもいあたるふしがありすぎるというか。その清水誠一が、晩年は壊れており、最期は「バラバラになった」と、にがりきりながら語っている。
個人的には、彦坂が「狂気」を完全に受け入れることができないことを率直に告白し、と同時に一方で、美術(界)が狂人の住処になってしまったことを暗示しているのだと受け取った。
彦坂流の芸術鑑定においては、1638400次元と呼ばれる人間の認識の限界がある。1638400次元と格付けされているものに、いわば狂気的なもの、ホームレスや海、草花、白紙、等がある。数字が小さいほど格が上と考えて差し支えない。美術最高峰のレオナルド・ダ・ヴィンチは超次元である、次点で1次元、2次元…というふうに下っていく。
彦坂流1638400次元とされる代表的な画家にモランディ(Giorgio Morandi)がいる。
この次元を「地獄の底」の象徴として「(カンバスの)まったくの白紙」と結び付けて言及していた。モランディにじーっと見入っているのは、白紙に見入っているのと同じことなのじゃないか?と。もし白紙をじっと見つめている人間がいたら狂人だが、モランディの作品に見入っていても何の問題もないんだよね、と。変だね、と。
その鑑賞者の関心の背後にあるものは何だろうか?このあと話題が音楽に移り変わっていくと、ややとうとつに坂本龍一の名が挙がった。
明言は避けているが、教授も格付けでは”白紙”の領域と評価されているのかもしれない。まあこれには賛否あるだろうが、晩年の作品や、アルバ・ノトと組んでいたアンビエント・ミュージックは、モロにそのような音楽だったように感じる。音で空虚を表現しているような、わびさびの境地のような。
つまり、彦坂氏が伝えたかったことは芸術のしろうと、危うい人は、こうした傾向の絵画や音楽に熱狂的に憧れる、ということだろう。
彦坂尚嘉。1946年、東京、世田谷区で生まれる。
高校入学後、芸術を志す。すいどーばた美術学院では、榎倉康二に教わる(ずいぶん虐められたらしい)1浪して多摩美に入学。浪人中、自分の錯誤に気づき、斜視を治した。このエピソードからも、精神がしっかり磨かれていることがうかがえる。
この若者がめざしていたのはあくまでアーティストなのであり、実際にそうなった。1970年、伝説の「フロア・イベント」で、自宅の床にラテックスを撒くというパフォーマンスをおこなう。この床を”見る”という認識行為、および思考様式は、現在の「格付け」まで一貫しているといえる。
この”見る”ことへの執念は、結核で死の淵に立たされ、天井の床をじっと見つめることに明け暮れた幼少期に由来するのかもしれない。
「フロア・イベント」でいきなり美術界に名を馳せた。
この時点ですでにして、口ばかりで何も実行しない、いくじなしの大半のアーティスト(曰く”弱いアーティスト”)達とは比較にならないほど、ふとい。
以降も意欲的に創意を発露し、展開させていく。美術手帖(78年)の表紙を飾った「ウッド・ペインティング」シリーズは、技量と世間の評価が一致した作品である。この頃の制作をふりかえって、
展覧会やったんですよでその時はかなり受けてですね。そうするともう量産ですねっていうようなことを有名作家から言われたんですね。でも私はその量産ですねっていうことがわかるタイプじゃなくて、わかんないんです
受けた作品がですね8流なんですよね。まあ1流と8流っていうとずいぶん下がるんですよね
(意外にも)本人の想いは意に介されずに、大衆に受容されてしまった。
(当時をふりかえって)超一流っていうのは実はないんですね。一流までなんです。超一流っていうのはだから文化の枠組みから外れてるんですよね。別格っていうことなので
はじめのころは、自分の意図が明確だったものが、次第にそれでは満足できなくなっていく。しかし、それよりもさらに高い次元で制作をするとなると、別格の(ある種、失敗作ともいうような)要素がなければならない。
ここ数か月、彦坂のことをずっと考えている。この人間を考えることは、芸術を考えることだ。
若いころのあまりに早すぎる完成や「ウッド・ペインティング」のつかのまの成功という不幸。本人がいくら「自分は具体の美術ではない」といっても、まわりは(70~80年代の)”彦坂”だけを期待する。辰野登美子や、教え子だった岡崎乾二郎や、諏訪直樹と同じものとみなされる。
富井氏の話のおさらいになるが、60年代に一度、美術は解体・廃棄されたのである。決定打となったのが1970年の大阪万博。それ以降、美術家たちは生活と芸術のために、新しい意匠を試みるようになった。がしかしそのためには、美術史のみならず、大衆の趣味のふたつの次元を同時に理解し、血肉化する必要があった。
わたしは、非均質的な生活世界へのリアリティを獲得するために、消耗戦によって自らの感性の基底になっている観念の破砕を志向しなければならなかった
…われわれは、われわれ自身のうちにおそらく何ものをも期待できないであろう。何ものをも生み出しえないであろう。われわれは、60年代末の闘いの中で、何ものでもないものへと到達した。われわれがなさなければならないことは、この何ものでもないものの、時間化ではないだろうか
これは「反覆」の一節であるが、いま読み返すと、ラディカルなだけではなく、どこかセンチメンタルでもある(しかしなぜ多摩美は、こうも言語的なギフテッドをたびたび輩出するのだろうか?)
現実は、この若いたましいの感傷表現の継続を許さなかった。
かたや”他者”を代表するアメリカの大衆表現や、日々むこうから輸入されてくる「情報技術」は、未知であるがゆえに”客観化”されており、近いようではるか遠い存在であった。
それゆえに、それらの表現を取り込み、咀嚼し、あらたに見える作品を生み出さなければならなかった。
<続>