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東京こわい

同僚に、競馬狂のおとこ(Sと呼ぶ)がいる。

もうずいぶん前に、Sに半ば強引にひきつれられて、東京競馬場にいった。晴れた日の富士山の、まるで北斎の富嶽三十六景のような堂に入った姿を崇められ、また競馬の勉強にもなったわけで、有意義な休日ではあった。

ただ、肝心の賭け事の方は...

本レースで一番人気の馬、単勝で勝負。我が人生時の時といわんばかりの気焔を揚げ、これに挑んだが、あえなく敗着。さようなら五千円。これには興も殺げて、そのまま帰ってしまいたかった。

五月の鯉の吹流しとは、人間なかなかいかないものだ。自分は賭け事で負けると、知らず知らず感情的になって、忽ち品が無くなるタイプの人間だということを認識した。

となりで黙々と血統競馬を執り行っていた我が同僚は(京都競馬場の方でも賭けていた)なんと万馬券を釣っていた!小銭が、十ウン万円に化ける様は、流石にダイナミックである。おれは「うわあ...剣呑」と、おもわず呟いていた。

競馬"狂"なのだから、借金もこさえる。
多重債務が膨れあがって、もうウン百程にもなってんだよ、ガハッ!と自慢してた。そればかりではない。いざという時はお父上に泣きついて、解決してもらう、ということをなんべんも繰返している。

しかも、本人が自慢ったらしく語るのだから、アレだ、「つける薬がない」のだ。

何にも考えずに済むのが、サラリーマンのよいところというか悪いところというか、悩む前に忙殺されちゃうってのは、

ある意味しあわせなのだろうが、

朝に茫然としながら起きて、いつもと同じ時間の電車に乗って、オフィスの入り口でもう一度うつけてびっくりした経験がある。

そういう日でも不思議と事務能力は低下せず、むしろ不思議と能率がよかったりして、つまりはサラリーマンというものは、茫然自失してからが勝負なのである。


その時、オフィスの時刻は終電近く、おれ以外に他数名しか居り合せていなかった。

うしろの島に、後輩の女の子がいた。

その子は、"本家"と名字が同じなので「カトパン」と呼ばれており、つきあいも良くて、まわりのパイセン達にも可愛がられてた。

カトパンが席を立ち、おれのデスクのすぐ近くにある冷蔵庫に向かってきた。微妙な足音の調子から彼女が近づいていることがわかる。

すぐ後ろから、歩いてくる音がする。そして、目の前を通る。フワっ、といい匂いがした。勿論、おれはモニターを凝視している。彼女を見ないように「努力」しているのだ。

おれは、おれの目の前を通る誰であろうと、無意識に、その人を見ることはない。興味が無いから。ところが、彼女に対してだけは「わざと見ない」ような感覚を持っている。それは、このシチュエーションに限定されない。

のみならず、この感覚は、ほかならぬカトパンも、おれに対して抱いているのではなかろうか?という、ひとつの仮説に帰結するのだ。全くの主観である事はわかっている。わかってはいるのだ。

例えばこういう事が起きる。

いつものように、カトパンが後ろから歩いてくる。そして視界に入ったその矢先、間違って彼女を見てしまった。すると、彼女もおれを、、、見ていたのである。

そして、まるで事前にそうなることを予測していたかのように、可愛らしい顔で苦笑いしながら言うのである。

「見ないで下さい」


カトパンは見た目の印象より、いくぶん低い声の持ち主である。

大の「F1」ファンらしく、これも意外性というか、女の趣味にしては、珍しい。

チャットワークのアカウントに、いつも「~GP」という表記があり、それはF1レースのシリーズ名なのである。なお、シリーズが変わる都度、更新される。

おれ、F1のこと寡聞にして知らない。そういえば、オーストリア人の知り合いで、F1大好き!って奴がいるが、日本人の知り合いで、F1観戦が趣味っていう人は、いない。

カトパンは何か長期休暇があると、必ずヨーロッパに旅行する。なんとなく、彼女の家庭の雰囲気が伝わってくるではないか。

まず間違いなく、家は金持ちではなかろうか。何故なら、おれの後輩がそんなに給料貰っているはずがない。それでも、年に数回、ヨーロッパに旅行にいけるってのは、一体その財力はどこから捻出しているというのか?

家が金持ちと結論づけるほかないではないか。いや別の意味の「パパ」がいたら、話は別なのだが。


我が同僚諸君と上野にある「鷹」というステーキ屋に行った。

店内は落ち着いた雰囲気で、まどかに広がるカウンターを構え、目前にてシェフが鉄板で調理してくれる。

メニューを開いたら吃驚。1g単位の価格が載っているではありませんか!何も考えずに最高級のランクを300gオーダーしたのだった。

上質なお肉の晩餐は、それだけで何とも言えない優位性を演出する。口にすると、それはまるであらかじめ人に奉仕する為にこの世に存在するかの如く、おれの舌を喜ばせた。

また、旨い物は人を饒舌にさせるのである。大いに盛り上がり、誘った女の子達も楽しんでいた。

ターゲットの女の子をお持ち帰りしちゃおっかな~と、Sにその旨を伝えたところ「今回は初対面だし、他社の子だし、なんかやらかすと噂が立つ可能性があるから、LINEだけにしとけ」と窘められちゃったのである。

、、、というわけで、旨い肉を食い、ギネスビールをしこたま飲んで、女の子と面白可笑しく話をして、にぎやかな一時を過ごした。

おれは、こういうのに脆弱なのだ。だらしがない。享楽に抗えなくなって、どこまでも、どこまでも、どこまでも落ちてゆくような、、、

しかし、今、ワタクシは何をやっているのだろう?

ここは呑みの席ではない。真暗だ。しかし、だとするならば?

そんな感じでグルグルと逡巡してたら、もう朝になっていた。車の排気の音が目覚まし代わりに。

ん!?ここはドコなのだろう?と辺りを見まわした。

どうやら、五反田のソープランド傍の駐車場で雑魚寝していたらしい。羞恥心のヒト欠片もない、、、

、、っは!!

蒼白して、あわてて上司に緊急連絡。

「おはようございます。昨日、わたくし、何かやらかしましたでしょうか?」

「いや」

「え!?、、でも、、、?」

「いや」

「というと?」

「大丈夫」

「っえ?っえ?、、いやだから」  

プッ プープープー、、、

フル回転するおれの脳髄。しかし幾ら考えても、自分の行動理論から納得のいく答えを導き出すことは不可能だ。

こんな時、おれはいつも或る言葉を反芻するのである。

「時間が、解決してくれる」

ボケ、としてたらいつの間にか二十代も後半にさしかかろうとしていた。

二十数度目の春。でも、懐古する程の回数でも無い。まだまだケツの青い餓鬼のくせに、何を達観するというのだ?

大井町線に乗車して、たまプラーザの素晴らしき景観にウットリしながら最果ての地、中央林間に着地。隔月で、某社データセンターの保守に来ていた。

そこには、おれの知らない日常がある。日常だけど近づけない日常。ゆえにたまらなく美しく感じるが、「日常を傍観して味わっている」というと、バチ当たりというか、現地の住人から顰蹙を買いそうである。

荒涼としたサーバールームでひとり、ひとしきり作業を終えたら、データセンターを抜け出して外で昼飯。会社のお昼休み時に食欲がわかないのは、なんだか切ない。

食べたくもないコンビニのおにぎりを頬張りながら、あたりをウロツイていると、フェンスで区切られた小さな公園を見つけた。

今日は風が強く、マンションの住棟間から風が吹き込む中で、キッズがバトミントンに熱中している。ワンパクな奴らだ。

今日の救いと言えば、カラリとした青い空くらい。寒空の下、強い日差しがマンションの窓に乱反射していた。

特に何にもやる事がないから公園をぼんやり見ていた。

子供らの話声が耳に入ってくる。それらは本当に他愛のない、何気ない一連のやり取り。微笑ましいが、彼らは彼らなりに一生懸命何かを主張していた。

大人も子供も変わらんのだなとおもう。

デートには車を使うようにしている。特にこれといった目的もなく、東京の知らないところをぐるぐるとまわるのである。

運転中、おれは女の子と、とりとめの無い話ばかりしている。

まるで連想ゲームのように言葉を使い捨てていく。そういう、実にならない、軽い会話のやりとりの中で、時折、窓から移ろう景色がおれたちを捉える。

「アーアレスゴイネー」とか、「キレイダネ」とか言いあいながら、ドライブは一種の、共感の儀式のようになった。

この前はイルミネーション巡りというのをやった。丸の内や恵比寿の華麗さといったらば!都会人というのは本音と建前を持っているものだが、これには女の子も本心から満足してくれているようだった。

ところで、別に、おれはドライブが好きなのではない。

寧ろ、ドライブに付随するもの、すなわち、アーバン・ライフの逸楽というものがおれを魅了してやまないのだ。それは言うまでもく、田舎者だから。

また、忘れてはいけないのが首都高速。東京オリンピックの開催にあわせて、急ピッチで作り上げられたという、そして確かにどこかレトロな雰囲気を残している、ドライビング・ツール。

この道路を走っているときにおちいる、都市群を俯瞰しているかのような錯覚、、、「アーバンな逸楽」そのものという気にもなるワケだ。

自分から進んで知らないところに迷い込むというのも、アリである。

眺めていて、おもいもよらない場所に、家や建築があると感興をそそる。

住宅街にひとつだけ、浮き上がったような前衛的な建築があったり、完全な袋小路に、場違いな大豪邸があったりすると、呆れたのか感心したのか、何かため息が出てくる。

そこで働いている、或いは、住んでいる人々がいる。異次元の日常を垣間見るような気分だ。


恵比寿のレストランで食事を済ませ、女の子がすっかり和んできたら「勝利の方程式」を発動させる時である。

アクセルを踏み込んで、首都高から川口方面へ疾走する。

そして楽しげな会話から一転、何の前触れもなく、車は突然Uターン。煌びやかなモーテルへ吸い込まれていくのだ。

女の子「えっ...」

おれ「大丈夫、ちょっと休むだけだから...」

女の子「えっ、えっ...(汗)」

おれ「だいじょーぶ...」


出社したら、なぜかSが肚を立てていた。

ミーティングにて、人目もはばからず、先日の業務トラブルについて、その責任はおれにあると、凄まじい剣幕でガン詰めしてきたのだ。

面食らったおれは、浮かせた腰をおもわず前へのめらせながら、夢中でSを凝視するほかなかった。

ただ、(これは被害妄想かもしれないが)なんとなく妙で、本当は業務トラブルはどーでもよく、ブチ切れる「火種」さえあれば何でもよかった、という気配もあった。

そうだとしても、いったい何に対して肚を立てているのか、皆目見当がつかん。

午前中からずっとイライラが止まらなかった。

昼休み、外の自動販売機の所で、痴呆のごとくつっ立っていると、カトパンも来た。缶コーヒーをおごって雑談したら、あっさりと午前の真相を知ることができた。

どうも、例の女の子とデートしたことを黙っていたことが、Sには赦せなかったらしい。

そんなこと聞いたら、すこぶる憤るしかない。何様なんだよ?と。

いっちょまえに日焼けサロンで焼いてるボンボンが、自分がリーダーかなにかだと己惚れていやがる。

「ほんっと、気持ち悪りぃ奴だな!」と毒づくと、

カトパンから「その子と連絡先を交換できたのは、Sのおかげでもあるから、まずは感謝の気持ちを伝えた方がいいとおもう」と、やんわりたしなめられた。


Sは、日本人には珍しいほど鼻筋が太く大きい威相の持ち主であり、馬の嘶くような甲高い大声で喋る男である。

こいつには、裏の顔がある。自分はその他大勢とは違う。特別な存在なのだと世間にどうしても認めてもらいたい、そのためなら何でもするし何をしようが構わないという類の、迷惑なクソ野郎だ。

新人時代、合宿研修での出来事である。

夜中に俺の部屋に押しかけてくるやいなや「10万貸せ」とやってきやがった。

彼独特の妙な迫力に気圧されて、断り切れなかった。果たしてこんな男とうまくやっていけるのかどうか、俄かに疑いが深まり、その夜はまともに眠れなかった。それでも悩みに悩んだあげく貸してやることにした。

当時のおれはというと、ひとりぼっちで田舎から東京に出てきた"イモ"であり、孤独で心細かったのである。

相手がおれのそうした暗く鬱屈した状況や、卑屈な性格も含めて、計算ずくめでやっているのはあきらかであり、とどのつまり舐められているのだとしても初っ端から人間関係を御破算にはしたくなかった。

もっとも、最初からこんなふうに受け身になったのはマズかった。

ここで毅然とした態度で拒否すれば、やつの鴨にならずに済み、また関係性も大きく変わっていたに違いない。

この出来事はおれが「受け身な奴」かどうかはっきりさせるためにSが仕掛けた”賭け”だったのだ。
そして奴は賭けに勝ち、おれは自覚もないまま、負けた。


あのころは山手線に乗ると、まるで荘厳華麗な極彩色の絵巻が目の前を流れるように、街の稜線と、広告の数々が輝いて見えた。

ヴィヴィッドな景色に立ち眩みながら、ふらふらと新宿駅に降り立って、とりあえずSと待ち合わせをしていた「東口」とやらのありかを交番に聞きに行った。

「あ!?東口?んなもん云々、、、」と半ば田舎者を馬鹿にした、ふてぶてしい口調で教える警察官。

何も知らないおれは「これが東京弁っちゅうやつか!」とド阿呆のトチ狂いで有難がっていた。

それまで住んでいた田舎は全てミニチュア。人も建物も。おれはまるで小人の国に迷い込んだ巨人のように、欝々とした日々をおくっていた。

新宿の高層建築群を目の前にした時は、逆だった。身のまわりのものすべてが大きかった子供の頃にタイムスリップしたような、ノスタルジアの中で浮遊している気分になった。

そんなふうにキョドキョドしている田舎もんを、Sが捕獲。靖国通りに出て歌舞伎町に吸い込まれていった。

気がついたら「イリウス」というタンニング・ルームの中でSとオイルを塗りあっていた。

これから自分の身に何が起きるのか全く想像すら出来なかった。

ブウウン、、、と音が鳴る蛍光灯が敷き詰められたマシンの中に入ると、全身にビームが照射された。

「う、、、うあああああああ!!!!!」

マシンから解放された後、這いずるように通路を回遊していたら、全身にポマードを塗ったくったように黒光したSとはち合わせた。

「なんでこんな店に連れてきたんだ?」

「いやいや、だってお前白いじゃないか、、、」


所詮、粋がり甘えん坊のボンボンを信じたおれが、柄にもなく甘かったのだ。

”返済期日”はとうに過ぎていたが、金が返って来る様子はまったくなかったのである。"田舎者が"って、バカにして、鼻でせせら笑っていやがる。

ついにおれはSに「いい加減にしろ。はやく10万返せ!」と詰め寄った。

相手は元カノに学友にその親族にと、あちこちで金を借りては踏み倒している"借金のプロ"である。

「逆にさ。かえせないもんは、しかたないでしょ?」云々とのらりくらり。これはこれで、設楽統風の泣きの入った芸であり、存外に効いてくる。

おもわず「サラ金から借りてこい!」と殴るように怒鳴りつけていた。

Sは、目を細めておれを睨みつけていた。「君とは距離を置かざるを得ないな」などと、捨て科白をはいていたが、

けっきょくおれのパラノイア的な取立てに根負けしたのか、休日に金を返すと約束をとりつけた。


当日、池袋駅で待ち合わせしたが、約束の時間を過ぎても、いっこうに現れる様子がなかった。

「もう着いているんだが」とメールすると、「見当たらないね。もう帰るわ」とふざけた返信が来る。

「自分勝手だなあ。ちゃんと金かえ...」というメールを作成していた矢先、構内にいるSを発見、捕獲(殴りはしなかった)。一応金はきちんと揃えて返してきた。

これで一矢報いたわけだが、それまでのこと。爾来、プライベートでの付き合いはほとんどない。

いまどんな女と付き合っているのかとか、そもそも職場の外ではどんな顔をしているとか、いっさい知らない。

どういう風の吹き回しか、じつに数年ぶりに「週末、新宿に来いよ」と、Sが声をかけてきた。

新人だったあの頃から、うろつく場所が変わってなかった。まず新宿である。新宿伊勢丹、表参道、銀座、、、

「タイムトラベルに往こうぜ」と言うのである。果て何の事かとおもったら、なんのことはない、時計屋巡りの事なのだった。彼が嗜好品に現を抜かすのに付き合えと。

でも、おれにとっては金の無い休日である。全然、贅沢が好きではないし、況してや、遊び人を気取る事さえ覚束無い、平均的収入の凡夫である。

表参道に寄った折には「ISHIDA」に往くのが、慣わしになっていたようだ。本来ならおれは此処の門を潜る「手形」すら持ち合わせていないのだった。因みにおれが愛用している腕時計は、シチズン(小市民)、、、

店の中は、硝子ケースが並べてあって、向こうに販売員が構えているという按配である。こうなってくると"小市民"は商品を見るのも億劫である。居るだけで褻涜であるように感じる。

しかし、それでも視界には、魅力的なオヴジェが敷き詰められている。「girardperregaux」だなんて、こんな風に文字に写すだけでも、こじゃれてる。これらを鑑賞すること自体は、きらいではない。

Sは身に包んだバーニーズニューヨークの洋服を捲り上げて、ウリウリとblancpainの金無垢を見せつけながら、店員とお得意のハッタリ交渉を楽しんでいる。

寧ろ彼の本来の欲望とはこういう所で、蒐集した機械式時計知識を発散する事なのだろう。唯、それを相手取る向こうはどうおもっているのだろう?


Sが運転するベンツで、銀座にむかっている途中、いきなり

「おれ、結婚するわ」

「あ、そうなの?おめでとう...」

今日の目当ては銀座のショパールにて、未来の奥方の結婚指輪を物色することだったようだ。なぜおれを引き連れているのか、釈然としないがだまっていた。

ショパール入店後も勿論、何時ものハッタリ外交であった。それに対し店員は温和に接していたのであるが、ふと、こう言ったのであった。

「どのようなものをお探しでしょうか?」

「ん~どうですかねぇ、イメージとしては、、、」と、Sは金額の事は一旦度外視して、イメージだけを店員に伝えたのである。

「成る程、当節としてはこちらで御座いますかね」

提示された指輪は、まさにSのお眼鏡にかなう品だった。ダイヤモンドの粒が、まるでfractaleの様な美しさで輪になっていた。

「おおー!これです。これが良い」

「こちらになります」

「九百万」

その時のSの辟易ぶりは、かなり面白かった。にこーっとしている店員は暗に示したのである。「黙れよ、小僧」と。


そのあと、青山通りの裏手にある駐車場に車を止めて、通りに出る。暫く歩いていくと、いくつかの紳士服店をめぐる。

一応サラリーマンという身の上、衣服類では唯一スーツにだけは興味があるので、ブランド品で埋め尽くされた青山通り沿いでも、退屈しなくてすむ。

最初にはいった店内は日本とは異質な、型の如き「アメリカ風」だった。焦げ茶色の渋い基調や、エグゼクティブを想起させる、輝くような歯茎の、笑顔のモデルの写真、、、資本の手先どもである。

Sは「これぞアメリカの良心」と愛してやまない。

入ると扉正面に大きな写真が掛けてある。スーツを着た外人たちがヘラヘラ笑いながら、レッドカーペットを歩いて壇上にむかっている風の写真。

おれはこの写真が放つ黒い霊気に神経が刺激された。

「この日本人を小馬鹿にしたような写真はなんだ?」というと、Sは「ああ、お前もこの写真が気になるか。この写真こそ俺のイデアを凝集しているよ、、、」と遠い目をしながら言った。

その他何店かのテーラーに冷かしにいくと、何時の間にか原宿駅付近にまで東上していた。Sは丁度、目をつけているというマンションがあるという。

ベルテ表参道というマンションだ。

築三十年の古い物件らしいのだが、坂に段々と造られている建築全体が陶器の様な美しいタイル張りで、品の良い。表参道という土地柄と相違の無いというか、溶け込んでいるというか、、、こんなとんでもないマンション、おれには縁がないのは言うまでもなく、

Sがいくらボンボンだからといっても、さすがに身の丈にあってないよ...

前々から東京駅八重洲口方面の地域が、東京都内で最も「東京らしい」雰囲気と感じていた。

しかし、その説明が、上手く出来ないでもいた。

この地域の、超高層ビルに紛れ込むような形で老舗が軒を連ねる妙なアナクロリズムは素晴らしいが、しかしだからといって、此れが「東京らしさ」の定立点であるとは、どうしてもおもえなかったのだ。

ある日、仕事がいつものごとく深夜に及んで、やむを得ず此処にある「サウナホテル湯楽三昧」に泊まる事になった。平日に関わらずほぼ満員であった。

なかは色々な人達でごった返している。のみならず皆疲れてもいる。

そんな人々が、小さなテナントの中で、黙って鮨詰めになっている。老いも若きも男も女も心の淋しい人達ばかり。

こういうのが、雰囲気なのだろう。そうだ、雰囲気とは、場所からではなく、人から発せられるものか。

ヘトヘトに疲れているから、目をつぶった瞬間、もう朝になってしまう。

ホテルを出て、或るカフェに入った。

何の変哲もない、トーストとコーヒーを頼んで、出されるのを待っている間、壁に飾ってある絵を見ていた。

額縁にはミロとピカソ、、、共に西班牙の画家、、、のポスターが飾っていた。それとデュフィ調の明るい、安定した構図、、、

一時の安堵を感じながらも、これが「東京らしい」雰囲気であるとはおもわない。それよりも、店長の老人と、店番の女の親子の様に仲が良さそうな姿や、煙草を燻らせながら静かに笑っている勤め人、クレオパトラみたいに鼻の高い相をしたトレンチコートを着た女が、英語の雑誌を読んでいたりするその様や、、、その一々が、どうしようもなく孤独にする。

孤独!これが、「東京らしい」とおもう。

彼らが航海を生業としたクルーだとしたら、おれはその傍らで、唯漂流しているだけのクラゲの如き、かよわい存在であろう。それを最も強烈に感じさせる場所こそ、東京の名を冠するに相応しい。


仕事中は、雑談をほとんどしない。それは同僚たちも同じであった。
そんな自分自身について、同僚たちがどうおもっているのか、知りたくもない。

入社したての頃は、ただの世間知らずの青年で、無欲と真面目さだけが取り柄だった。

この生活に慣れてくると、文学に凝りはじめ、悪い遊びを覚えて、出世レースはそっちのけになった。「これではいかんな」と内心気づいてもいたのだが。

オフィスビルは、2つの駅の中間にあったので、どちらの駅から出ても、15分ほど歩く必要があった。
辺りは、全てがコンクリート張りの、デコボコの地形であった。高所に団地や住居街や公園があり、そこから急な階段を降りて、すぐ目と鼻の先に、大きな車道があった。交通量も多い。

小さな子供が、一人で公園から道路の所まで降りていったら大変じゃないかと、おれは想った。ぼんやりした親の子供なんかは、目を離したすきに道路に飛び出て、事故で死ぬ事もあるではないかな、と。

車道沿いには、有名な施設がいくらでもあった。幼稚舎、有名校、芸能事務所、高級雑貨店、、、意外だが、それらは何十年も前から同じ姿を保っていた。

近くには草彅剛が、全裸で走り回ったとされる、例の大きな公園があった。
オフィスの入った一室は、狭いにしても土地柄からすれば、やけに賃貸が安いらしい。ひょっとすると事故物件なのではないかと、同僚たちは冗談めかして話をした。

この部屋に出入りするだけの、単調な生活である。
ベランダに、観葉植物が置いてあった。心無い同僚たちは、まったくの無関心だったので、おれが率先して水をまいていた。正月休みでも植物たちが気になって、出社していた。


電話で、顧客とやりとりしていると、その様子を見ていた上司Mさんから

「あのさ、いま客とどんな話になってんの?」と詰め寄られた。

...うっ!?

本当にこの人は、異様に勘が鋭い。すかさず急所に手を伸ばしてくる。

通話モニターをONにしたままで、もう一度電話をかけなおさせられた。通話を終えると、

「なんだあの(客の)声の感じはぁ...ほんとさ、いままで何を話してたんだ?」

アワ...アワワワ...と経緯をひとしきり説明すると、

「おまえ(客に)テキトーなこといってるんだろ!」と。

そして「質問にYESかNOで答えろ」といって、尋問するような真似をしてきた。

四十過ぎのおっさんが、本気でカッとなっている。おっかない。

YESかNOかで答えようのないような理不尽な質問ばかりされて、

困り果ててしまい、しどろもどろになっていると「だからYESかNOかでいえ!」と怒鳴り散らされた。

これじゃ逃げ場がないだろ!人前で、"ホラッちょ"の駄目な奴という烙印をおされてるようなもんだ。

「あいつは仕事できる/できない」だとかの、仲間内の格付けの世界で生きているのだ、、、

いたたまれなくなって、近所のドトールコーヒーに避難。

しばらく瞑想して長谷部誠ばりに心を整え、いざ職場に戻るとMがやさしく一言、

「おまえ、そんな覇気がない様子で、だれが付き合いたいとおもう?もっと第三者的に自分をみなさい」

ガクぅっ、、、

今日もサウナに行こう。


Mさんが、閑散としたオフィス街を歩いていく。
カッカッと、革靴の、地面を踏む音を、あたりに響かせていた。

オフィスに入ると、独特な、無機質な臭いが漂っていた。
すでに数人がデスクに座っていた。
部屋に入るや否や、みんなの表情は一瞬、独特の緊張の色を帯びた。いらいら、おびえ、うんざり、あわて、、

「さっさとしろ!私に対する説明に時間かけてどうすんだよ」
「はい、、はい」
部下はいそいそと自分の席に戻って行った。我が同僚たちは、いつもいつも、この男の神経を恐れていた。

Mさんにとっては、ほとんどの部下たちは、死人同然だったのかもしれない。

「はい」「了解です」「わかりました」、、、いつも返事だけは良いが、それだけのことであった。

Mさんは我慢しているが「お前らは屑だ!辞めてしまえ」と罵声を吐きたいのだ。昔から、いいたい事を、かなり激しくいう人なのだ。
これでもずいぶん、丸くなってはきているのだが。

そんななかで、最近のカトパンの活躍ぶりは、目を見張る。

"THE・クラッシャー"の異名をほしいままにするMさんも、彼女だけは好きにやらせているので、自然とまわりも勘付いていた。

「上がっていくのは彼女だな」と。

新人の頃、メソメソ泣いてたあのカトパンが、、、いったい女というのは化け物だなと、つくづくおもう。

日々"クラッシャー"のサンドバックになるしか能のない、おれたちは秘かに凹んでいた。「自分は選ばれなかっただけ」という、冷酷な事実を突きつけられていた。

或る日、こんな不思議な夢を見た。


「こんばんみ」

おれ
「わ!
君はいつも、
突然、
現れるんだよなあ」


「あの、
すみません、
本当に突然なんですけど、、、
神様にお目にかかったことはありますか?」

おれ
「ん、
うん、、、
まあ、
それは」


「実は、
商売を始めようとおもってまして」

おれ
「と、
いうと?」


「その、、、
神様に、
商い成就の祈願をしたいのです」

おれ
「あ、
なるほど。
それで俺に協力してほしいって、
わけだ」


「一から探すより、
素性が知れてて信頼できる人に、
頼む方がいいとおもって。
でも、神様に会うのは、
大変そうだから、
無理かな?」

おれ
「きみは、
猫だから、
先ずは人に化ける、、、
そして、
その人の知り合いになりすましたおれと、
一緒に行って、
神様に御願いする。
こんな所だな。
もちろん、協力するよ」


「本当!?ありがとう」

おれ
「ちなみに、
化ける人の、
当てはあるの?」


「あります。
今、作戦を練ってる最中」

おれ
「ってことは、
化ける相手、、、、
つまりお金を持っている人が、
知り合いにいるんだ?」


「たまたま良い出会いがあって、、」

おれ
「どんな人なの?」


「まだ若いのに、
すごいお金持ち、、
悪い人かも、、、
でも、
素直で憎めないっていうか、、、」

おれ
「なるほどなあ
とにかく、
大好きなんだな」


「てへへ、
今日は本当に良いこと聞きました。
ありがとう。
またお話しましょ!」

おれ
「うん、
またな」


「何か企んでるな、、、
おれは君のこと、
何にも知らない、、、」

翌日、カトパンが起業する話を、ほかの同僚から聞いた。

とある金持ちがカトパンに出資したいと申し出ており、すでに経営計画書も出来上がっているらしい。

「この激務の日々で、いつのまに...?」と、いうよりほかない。

仕事をきりあげて、だれもいないオフィスを出た。もう深夜0時を過ぎていた。ビルとコンビニと、深夜営業している飲食店が疎らにあるだけだった。

うじゃうじゃ人が湧いているか、閑散としているか、そのどちらかしかない極端な街。本当は、だれも住んじゃいない街。

おれは一人で、トボトボと地下鉄へ歩いていった。地面ばかりを見ながら、歌を歌いながら。


同僚の結婚式に行ってきた。
舞浜のシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテル。
盛大な式だったよ。
その結婚する同僚が、まあ頭のネジが外れてるというか、頼りない奴なので、こいつ結婚して大丈夫なのかな?
とおもった。
嫁も同僚。おれの可愛い後輩。
ちょっとまえに退社してる。

金持ちの息子で、ド都心の自社ビルに住んでいるような奴なので、仕事できなくても、心に余裕があるのかもな。
ムカつく奴だけど、結婚式に呼んでくれるのだから、お祝いしますよ。

大人になると、いろいろ人を見る目が変わってくるね。

ふたりは数年も続いていたらしいが、会社で気づいていたのは、ほんの数人だった。当人たちも隠そうとしていたが、そもそも誰もが自分のことで精いっぱいで、他人に無関心だったんだ。

最近、川口のショッピングモールのフードコートで働いていた、ハーフの女の子を、なんとか口説けないかと頑張ってみたんだけどさ。

はじめどうだったか、ちょっと不確かにしかおもい出せないのだけど、結局、おれはその娘に声をかけてみたのだった。

何の話題だったかは忘れたが、共通事項があって、意外と会話が弾んだ…ということだけは覚えている。その娘の地元の話とかで。

それで、すんなり「話だけはしてくれる」関係性は築けたのだった。もっとも、連絡先を聞く、という蛮勇はまだ奮える気がしなかった。

その後もフードコートに凸して、その娘がいたら、ほんのちょっと話しかける…ということを、なんべんか繰り返した。

数ヶ月たったある日、フードコートに行ったのだが、その娘はいなかった。別に、それはそれでよい。
「飯を食って帰ろ」とおもうだけだ。

メニューを見ていたのだけど、後ろから、知らない女の人に声をかけられた。話を聞いたら、なんと、女の子の母親だったのである。
「今度、娘のダンスの発表会があるから、来てほしい」と言われて、チケットを手渡された。
でもさ、行かなかったんだ…

何でなのか、理由が、うまく言えないのだけど…そのあとはフードコートにもいっさい行かなくなった。

<完>



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