彦坂尚嘉論(2)
物は実体ではなく、むしろ、それは空間ではないか?
なぜなら、物がない空間「空虚」はいかにもありえる話だが、その逆の関係はまったくありえないからだ。空間は実体=具体の最たるものであるからこそ、学問の対象たりえるのである。
むろん視覚芸術もこの伝統の範にある。
なんでも古代ギリシャでは「物」のことをプラーグマタ(実践)と呼んだそうだ。紀元前より前の美術の徒が好んで使う実践的技法は類比であった。逆にいうと、これだけ。
整理整頓。あのメソッドがどうだ、あの画家のあの作品と、あの画家の作品はうんたら、と、身辺整理ばかりにかまけている。
もしかりに、美術の要件は満たしているが、芸術的には何の面白みのない作品があったとして、それがつまらないものと判断できないようなら、その者は三流以下である。
よい芸術家は、この不思議な類比の力をもっていて、いわゆる目のよしあしも、この能力と深くつながっている。
彦坂の悪名高い”真性の芸術”いやがらせテストというものがある。
被害者は数知れず。その点鬼簿をひもとけば、会田誠を筆頭とし、有名人もチラホラ。この芸術の真贋を判定する手法については、美術界ではおおむねタブー扱い(=暗黙の村人たちの目配せによる)である。
もし仮に嫌がらせテストにより、正否を当てられなかった場合「見る目」がなかったことが公になり、美術界界隈(大学機関、美術館、画廊、美術手帖、等)の職能が崩壊の危機に瀕するからだ。裏を返せば、それほど美術界の人々は、彦坂を恐れている。
なんにせよ「ウッド・ペインティング」は、後年の達成である「切断芸術」と”類比”しなければならない。
「切断芸術」とはなにか。
いったん切断され、ふたたび異なる面同士を接合する。もとは芸術ではないものが、芸術として成立する…
「やってはいけないことをやっている」(彦坂の発言)
とくにヴィデオのなかで極めてラディカルだと感じたのが「アビニヨンの娘たち」である。ピカソの傑作のみならず、現代アートの大原則「経済合理性を(は)否定しない」をも真っ二つに一刀両断しているかのような。
昨今の現代美術界はといえばコンテンツ・マーケティング的思考が全体を隈なく蔽っている。企業も美術館も”インプレ”を稼ぐにんげんが欲しい。第二、第三のKYNEが欲しい。つまりは”拡張しない者”には死を賜る、ということ。アヴァンギャルドやら反体制やらは、イモいものの最右翼である。90年以前・以降の美術のちがい?
そんなものどうでもいい、と。
だからかしらんが、この両者はまともに比べられもせず(やったところで、前後の関係は”無関係”であるとするしかないのだろうが)、なかば黙殺されて、今日にいたっている。
この世界は本音と建前が完全に解離している。しかし、芸術の一方の価値”アナーキー”を標榜する以上、このことを公然と認めることはできない。その帰結として厄介もの は積極的に存在忘却される。
情け容赦なく、ただ成り行きを見守るだけ。
たとえ芸術家がどんな状況下で喘いでいようとも、じっと見ているだけ、というのが業界人の職業倫理となっている。内部で囁かれるワード「象徴界(の喪失)」も、言外の意はまさにそこにある。
今一度、現代アートの特権性を問い直す必要があるように思われる。その起源は、50~60年代の反絵画・反体制芸術の隆盛、アヴァンギャルド芸術にまで遡る。
1970年代を境に、この流れがいったん、断ち切られた。
ところが80年代末から90年代初頭にかけて、ちょうど”逆張り”の関係に位置するような運動が展開されることになった。この流れは後年、村上隆のスーパーフラットや、会田誠の具象リバイヴに結実する。
ゼロ年代になると「絵画meet彫刻」が完全に主流になった。このような状況は美術史の正統性の当否はともかく「それでも絵画を保守したい」という体制側の願望によってつき動かされていたようにも見える。
しかしこの史学的な奇妙さ、収まりのつかなさ、居心地の悪さにも関わらず、90年代後半からゼロ年代に活躍していたアーティストは、正統にいっても成功していたのである。
このことは重要だ。どうやら美術史的了解の変様は、芸術作品への実際的な”芸術判断”に、必ずしも必要不可欠な要件となるわけではないらしい、ということが白日の下に晒されたのだから。
ひらたくいうと、これまでの常識、美術教育がまったく通用しなくなったということ。
ほんらいなら軽蔑すべきもの、憎むべきものに、ひとたび”未知との遭遇”という形で対峙したときに、ほとんどの人はとりあえず「わからない」というしかないのだろうと、思う。
時代遅れ、いまでいうところの情弱、とあざけられるくらいなら、とりあえずわかるふりをしたり、直感的にその正体に気づいてはいても、言い争ったりはせずに、黙っているほうがクレバーだから。
誰かが屁をこいたとしてその場で、即座に「聞こえました」ときっぱり指弾するよりかは、あえて聞こえなかったふりをする方が、ニッポン的にはより大人な対応である。”見ざる聞かざる言わざる”という、仕草、日本人が世界に誇る徳目の一つでもある。
日々、あふれんばかりのコンテンツを眺めていると、ふと、自分はこの時代の人間ではないのかもしれない、と感じることがある。反時代的人間であることを標榜せずにいることは、もはや自分には、むずかしい。フェティシズムと嘲笑されようがかまわない。
<続>
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