花村(執筆中)

わたしの一族が、いつごろから”あの家”に仕えるようになったのか、知らない。なんでも、祖父はとうにも満たない子供のときから丁稚奉公していたらしい。戦時は特別年少兵として海軍にいった。戦役を終えてすぐ、軍のツテで乗り込んだ捕鯨船の上で約10年間を過ごし、大金を稼いだあと、帰郷してまたあの家に仕えなおして頭角を現した。憲兵や兵隊たちも、金をもっている人間にはやさしい。金にものをいわせて結婚したのが、あの家の者の血筋をひく祖母である。長男は町長、その孫、つまりわたしの従兄は陸軍学校にいった。わたしはこの未来の戦車隊隊長には、ついぞおめにかかったことがない。ウチはといえば、一族のうちで宗家の恩寵に与る者たちとは、まったく疎遠だった。父はよくこの立派な叔父上のことを「どうしようもない役立たず」と罵っていたが、兄上から見れば、この男こそ、その名に恥じぬ真性のうつけであっただろう。父は、あの時代特有の気分の中にしか生きられない人間だった。片田舎の満天の星空の下、納屋のなかで式典の英雄に想いを馳せ、ガキっぽい理想主義に燃え、長じて後、反体制運動にのめり込み、結局は不穏分子としてお国に睨まれてしまった。

わたしがまだ幼いころ、母と一緒にどこかへ雲隠れし、それから何のいきがかり上、そうなってしまったのか、いったい何を引き受けてしまったのか知らないが、支那へ移った。当時、戦争により排日気分が高まるなかで、膨大な資本の投下によって創設され、巨大化していく植民地の工場と炭鉱だけが、父のような類いの人材を必要としていたのだ。ふるさとにとり残された者たちはつねに金銭問題に悩まされた。父はたよりにならなかった。景気がよいときに、きまぐれに金を送ってくるときがあったが、それはたまたまコウノトリが運んできただけのことであって、本人の辞書に禁欲という文字はなかった。一家、つまりわたしの叔母の家はしょっちゅう、明日の飯も食べられるかわからないという羽目に陥った。そのたびにわたしは市場の野菜やら果物やらのネット詰めに駆り出された。中学にあがった頃、家の窮状を訴えるために、生涯に一度だけ、父に手紙を書いたことがあるが、なにやら立派な文句のならんだ手紙が返ってきただけで、それきりであった。

二十歳の夏に、その父が死んだ。見事なくらいにあっけなく逝ってしまった。とうの昔に離縁して、再婚していた母はきつい人だった。離縁した元夫の弔いなどするはずもなく、わたしが喪主にならざるをえなかった。香港へ渡り、教会でひっそりと、ひとりだけの葬儀を終えた。まもなくして母に会った。その住まいである花園の建物は、じぶんには縁のない、立派な洋式のお屋敷だった。母の再婚相手は戦時下の貿易で成功をおさめ、青果卸売の会社の社長として名士に数えられていた。母は、煙草を吸いながら、けだし彼女の空想の中ではまだ赤ん坊の姿のままであったはずの、わたしをじっとみていた。その視線がなんともいえず力をもって、こちらを射すくめた。殺気ではない。そうではなく、ひらきなおっていた。確実にくるであろう息子の非難を見据え、身構えているというよりも「お前の考えは全て分かっている。わたしはこういう人間だ。さあ、罵れ」と語っているように見えた。結局、会話らしい会話も成り立たず、辛い思いのまま立ち去った。

父は遺言を残していた。わたしはただ一人の息子だ。相続人として弁護士事務所に行かなければならなかった。その日の朝、いったん盛装したが、鏡で見ると、なんだか無性におかしくなって、やめてしまった。昼過ぎ、シャツとタイの普段着のまま事務所にはいると弁護士はすぐ目の前にいた。刈り上げたうえに、びっちりポマードで仕上げた七三分けの中年男だった。綴込表紙のついた書類がどっかりとのっかってる机に座っていて、わたしをみて微笑した。それから書類の上に肘をついて指の先をこすりながら、しばらく興味深げにこちらをみつめていたが、「では」と、役者みたいに異様に明晰な発声で話しはじめた(ここでようやくこの男が日本人だとわかり、ホッとした)「他の方はもういらっしゃらないですか?」「他?」自分以外にも訪問者がいるようだ。彼は控室のソファに座っていた。

彼は、無表情だった。肌は褐色で、濃紺の長袍を着ていた。窓からさしこんだ陽のひかりに照らされたその顔が、部屋の風景と溶けていた。わたしはあまり流暢ではないマンダリンで話しかけた。彼は予期したほど驚いた様子も見せず、あたかもそれがあたりまえであるかのように、会話に応じた。しかし、まともに目をあわせようとはしなかった。目の前に立っているのは、まさしく、もうひとりの自分だった。かなり日焼けしているが、顔、背格好。みなり以外は、完全に同じ。彼は、わたしのことを「あなた」と呼んだ。たんなる関心対象ということを超えている表現である。彼は、先日、弁護士がきて、裁判沙汰にならないように、あらかじめ書類にサインをするように求められたが、わからないといって、おいかえしたのだと言った。父が遺した、すべての動産と不動産、ちいさな土地、自由公債、預金がその子息たちにまとめて遺贈され、遺言執行人が管理し、子息たちが話し合って決める方法で分配すべし...

「ぼくは法律のことはぜんぜんわからないけれど、明日、くにへ帰る予定なので、できればすぐに遺産の半分をもらって、自分の仕事に投資してしまいたいのです。当てがあるのです」「ぜんぶ?」「ええ」と彼はきっぱり即答した。「ああ、きみが最善だと思っていることをやればいい」とわたしはかろうじてそうこたえた。はじめて彼は微笑んで、わたしに手を差しのべた。「ぼくは、リュウです」

わたしたちは昨晩、ホテルの一室でずっとのんでいた。わたしが寝てしまったあとも、彼はずっと起きていたようだ。めをさますと部屋には誰もいなかった。彼は一階リビングでひとり、窓から、夜明けの金属的な色の空をながめていた。「またせてしまったね。腹が減ったろ?」「いいのですよ。さっきまでずっと、街の景色を眺めていました」彼は小麦色の高校球児のように健康的で徹夜をしたとは思えないほど精気に充ちていた。共に朝食をともにするために、街にでかけていった。彼の案内で知らない街路を歩いていった。坂道をのぼりきった先に、教会のまっしろな大きな門があり、さらに少し脇道に入れば所狭しと雑居ビルが立ち並ぶ。古い鉄骨造りの商店街、頭上にはさまざまな看板、鳥かごのところで叫んでいる謎のシナ民族、ねばついた魚の露営店などでいっぱいだ。日が暮れるころには夜市になる場所である。

「批鮮犮鸡蛋」と書かれた看板が目にはいり、卵を二つ買った。彼は不思議そうに見つめていたが、わたしはあえて黙っていた。その卵屋のちょうどはすかいに角打ちのできる商店があったので、入った。出された酒で卵酒をつくった。「なんです?これは」「これは」と、言いかけた言葉もぐっと飲み干した。彼にも同じものをつくってやった。彼は卵の黄身も破らずに一気飲みしたが、すぐに吐いてしまった。涙ぐみながら「これはひどい。まるで蛇になった気分だ」「二日酔いになった日にはこれをやるんだ」「いっそ吐いてしまえばいいじゃないですか。便所にいってみてごらんなさいよ」彼の口から飛び出した新鮮な卵黄が、わたしたちをじっと見つめていた。ふたりは同時に笑った。

まだ酔いが残ったまま人混みをかきわけて小さな公園を通りぬけて、めあての食堂に入った。わたしは茶と一緒にのみほした焼鶏の他は喉を通らなかった。そんなわたしにめもくれず、彼ははまるで宴会で羽目を外しているかのように、何品もの料理を食う。わたしにみせつけるように。きれいさっぱり平らげてみせた。じぶんと同じ姿をした兄弟にみずからの血の濃さを誇示しているのだと思わずにはいられなかった。デザートを注文したあとそれをまっているあいだに、もう一杯、茶をのんでから、わたしはジャケットの内ポケットから、分厚い封筒をとり出した。「それ、うまく使ってあげますよ」といって、彼は中に入っている札をろくに数えもせずにポケットにしまいこんだ。「わたしの名で預金しておけばそんなに後悔しなくてすむのではないかな?」彼は聞こえないふりをして「汕頭で今年の冬をこしたら、あなたに1万円。どうです?」「好きにしてくれ。わたしは金儲けの事はわからない。給金以上の金のことはまったくわからない。それに、どのみち、むこうの家族のことですっかり金を使い果たしてしまいそうだ。こちらとちがって、日本はなにをするにもむずかしい。結婚も子育てもね。なにより、死ぬのも金がいる。葬式もバカにならない出費となる」「なくなったのですか?あちらの親族が。どれくらいお金がかかりますか?ぼくがその金を出しますよ」わたしは、そういうことについて話したくないというふうに頭を横にふった。

彼は首から紐で結んだペンダントをぶらさげていた。銅色に煤けた文字で皇紀が記されてある。「父の形見です。祖父から受け継いだと聞きました」「じいさん、見たことないだろう?」「ええ」「いつも酔っぱらっていたなあ。道端で豆まきしたり、休日に日がな酒を飲んでは、草むらに寝転んでいたっけ」といって、黙り込んだ。急に話が終わってしまうと、彼の目に失望の色が浮かんだ。語るべきことを語ろうとしないわたしの意図に気づいたようだった。そのまま、ほほえむのをやめてしまった。だが、なにを語ればいい?…わたしが知っているのは祖国以前の坂道や草むらだけだ。彼は、ずっと心の中にいた「探している、兄さん」の魂を探しあぐねているようだった。しかし、わたしにはどうすることもできない。だれがこの少年の魂を静められるというのか。

ふたりが黙り込むと、ふたたび、食器のカチャカチャいう音が聞こえてきた。何人かの子供たちが、わずかに肉片の残ったスープをすすっているのだ。煙を店から追い出すために料理人が窓を開いた。そのために通風路ができて、さっと公園から吹き付ける風が頬にあたった。すこしのあいだ、壁によりかかって家族のことを考えていた。窓から見える風景には、生気があり、人々が繁忙な仕事に追われ、男が赤茶けた自転車で荷物を運んでいる。街上の飾り物屋の店頭を見て、祭りが数日後に迫っていることに気がついた。公園からきこえる子供たちの声、やさしい声。ヒトの埋もれた苦悩がこめられたような、薄汚れた壁から、目と鼻の先にある公園。その声を聞いていると、故郷のことを思い出すが、今の自分の、この、まったくもって奇妙な姿を見てほしいと思わない。たとえあなたたちと、この異国の地で会うことができたとしても、わたしは決してそれをのぞまないだろう。

彼がどんなやり口で儲けているのか話を聞いたが、さっぱりわからなかった。だけれども、どうやら、今あそこでこういう出来事がおきているだとか、誰かれが密会しただのとか、あの男が有望だとか、人と話をしてそれを金に換えているらしかった。今は汕頭市にいるが、もしどこか惹かれる場所を見つけたら、さっさと移って、運をつかむまでそこで過ごす。昨今のアジアの岸辺の喧騒はまったくキチガイ沙汰だった。戦火のさなかでこそ、ショーバイを大々的におこなわしむることが大なる効果あるものとなるのである。まわりの人々に話を聞いてみると、どうしたものか、みんな口をそろえて「ようやく息ができるおもいだ」と言う。彼らは長い間、蒋介石の悪政をひそかに憎んでいたのだ。物が増え、ビジネスが起こり、皆なエクスチェンジが行われるたびに、記録破りの売上高となる。商売人どもの借金も記録破りだ。みるからに豪勢な着物をきた人たちが、持ち物をだすにだせずに拳を上げて右往左往している。「どうやってそんな商売を尋常にまわすのかね」「あらゆる可能性があります。物も、機械も、どんどん(ここで語気を強めた)値が高くなるのです。今注目しているのはセメントの新しい工法ですね。材料の見分け方や、工程の計算方法、補強手段。ニュー・ヤング・シティの道路や泉水や地下室、暗梁をつくるにはどうすればいいか。支那人どもは皆、口をそろえて、そんなもんはたいしたことはないって言うのですがね。なに、フランス四千万が言ってることなのですから、間違っているはずがない」勘定を済ませた後、車夫を呼んで、わたしの泊まっているホテルまで彼も同行させた。入り口のところで一言「今日の夜はあけておいてくれ」と頼んで、いったん別れた。それから友人たちのいる日本人町へと急いだ。

日本人町は内地の町並みによく似ていたが、どこか映画のセットのような怪しげな雰囲気があった。もとは全き支那式家屋だったのを大急ぎで改築したのである。その狭い空間に、多くの人々が肩を寄せ合って暮らしていた。一歩踏み入ると、日本語の看板があちこちにあって、なじみのある響きが飛び交っていた。商売往来には和服姿の人たちが歩いており、政界・財界の有名人もよく見かけた。我が友人たち、自称アナルシストのスケコマシ男、神戸からきたダンス教師あがり、コックをしている若ハゲ画家、トーキー映画のカメラマン、などの面々。千差万別であるが、ひとつ共通なことは、日本語を話せればアジアのどこへいっても困らないと思い込んでいるらしい、ということであった。まったく愉快な仲間たち、愛すべき仲間たちであった。わたしは彼らとどんなことでも共有したいと願っていた。ちかごろ、人間の平等、恋愛の自由(=革命)などを口にする連中が多くなってきたうえに、共産革命をとなえる若い世代がそろそろ台頭してきていさえした。もっともわたしの場合は、あくまでダンディズム、つまりシャレとデガダンス、つまり退廃の信念によって、それをやっていたのだ。女をモノのように扱う最悪の趣味ではなく、断固たる実存思想としての退廃である。すなわち、まだ見ぬ来たるべき死への予兆。これを皆と共有したいと密かに望んでいたのである。わたしたちはベロベロになるまで酒を飲み、激越な口調で天下国家を論じてドヤ顔し、ゴシップと命名に明け暮れてその日その日を過ごしていた。皮肉ばかりのおぞましい日々で、そこにはいかなる前途もありはしなかった。しきりに戦乱、乱世という言葉が出る。我が邦は危機に瀕していると言われる。しかし、危機に瀕しているからこそ、わたしたちは覚醒するのだ。いまこそ若者たちは奮起しなければならない。銃後は国民が一致団結して護ってくれているから、わたしたちは心置きなく闘えばいい。そうすれば石原将軍が予言するが如く、我が邦は、天皇陛下は、世界を征服するであろう…

すべてが危険なジョーク。わたしたちの話をまともに聞くものはさして多くはないが、なにしろこの町は狭すぎる。来るもの拒まずで、しだいに話を聞きに人が集まっていく、そのうち路地に呼び入れ呼び入れする者さえ出てくる。最後には誰もかれもが好き勝手に喋りはじめて、わけがわからなくなる。

まだ女学生くらいの年頃の娘をよく見かける。いつも上目づかいで、ふんわりと、遠回しに、いわく言い難いような生々しいことを言う。売春。ここでは荒稼ぎが可能だ。町にひとつ、どことなく民家とは違う粋な造りの家屋があって、オトコの声と、矯笑が聞こえてくる。兵隊たちは誰も彼も気が触れているように気前がいい。皆、何につけても後ろ暗さというものがなく、現実だけを生きている。

夕方にリュウを迎えに行った。想像していた通り、わが軽薄な仲間たちは、飛びつかんばかりだった。一卵性双生児の兄弟といえども、自分よりもずっとハンサムで、若さにあふれ、人を惹きつける。熱い、獣じみた目つきで見つめられた時、誰もが彼の力を感じずにはいられなかった。彼は時折、わたしたちには理解できないカタコトの日本語を話し、たえず笑みを浮かべていた。

「汽車のなかでずっとトリストラム・シャンディを読んでいました。茶畑に覆われた山河をあとにして、夢のような多枯の風景を窓の外から眺めます。それからしばらくして、たんぼがいちめんにひろがってい、次第に懐かしい匂いがしてくる。長い旅を終えて家に帰るのはいいものだと改めて実感されます。香港から一緒に乗ってきた二人の女がお喋りしていました。一人はうんと若い小娘で、可愛らしく、たまにすました表情をします。もうひとりの老婦人はどうも未亡人らしい。日本軍膝下の香港で、おんなが一人で暮らすのはよくないことですと言い続けています。この年寄りがあんまりピーチクパーチクと喋り過ぎるので、女の子に話しかける機会がありませんでした」

「…を通り過ぎて、たくさんのでこぼこした工場、薄よごれた町々が見えてきました。黒々としたおおきな河、ゆっくりと航行するいくつもの汽船、ひろい、荒涼とした塩田などを横切りました。ズブ濡れの道路の上空はくもりでした。だんだん気持ちがたかぶってきて、おもわず椅子から立ちあがりました。外のつめたい空気を吸いにデッキの方に行くと、髭だるまのような巨漢の車掌がニヤニヤしながら出稼ぎかね?とたずねてきました。さっさと部屋に戻りました。すでに掲陽も通り過ぎて停車駅までもう一つでした」

ここでいったん手紙を読むのをやめた。

あまりにも長大な文章だ。このぶんだと、おそらく読み終わるのに数日かかるだろう。メモ的に気になったところだけを読む。

「帰ってから、繁忙な仕事に追われています。しばらく福建と台湾をゆきつもどりつしていました。みんな戦火のなかで、まともに正月を迎えられるだろうかと不安がっています。おもうにこれは千載一遇の好機、”かきいれどき”というやつです。必ずや日本軍は民衆に正月を大々的に祝わしめるよう宣伝を出すでしょうし、その効果は絶大となるに違いありません。大急ぎで正月用品を買い集めています。線香香木の類い、絵、福神像、掛け軸、爆竹…」

「苦力ののらくら共を叱りつけてばかりいる生活にうんざりしてます。こいつら、まるで老耄みたいに、なにをやらせてもだめなんです。说什么?尊此奴?我吐!」

「台湾の海ともしばしのお別れです。高雄港から渡り船にのって、帆船がたくさん浮いている七美の湾を過ぎて、船の往還織るがごとくの南澳島、金嶼島、金町湾、馬宮港の海面に入っていくと、とても素敵な気持ちになりました。晩秋の日々はすべてがキラキラと輝いている。外套を新調しました。ポケットにはたっぷり金が入っています。まだ日焼けしてます。久しぶりに広東料理を食べました。あとは隣に可愛い人がいれば完璧なのですが。ああ、ぼくもそろそろ身をおちつけて、しあわせな家庭生活に入りたい」

平野信治の事件については、一頃は仲間たちの集まりでも、彼の話題でもちきりだったが、しばらくすると、すっかり忘れ去られてしまった。一度噂が立つとなかなか消えない内地と違い、ここは話題が多すぎるのである。もっとも平野の家族にとってもそれは望むところだったはずだ。ゴシップと、ひとさまの噂話や不幸話を吸って何とか生きながらえているようにみえる連中のおしゃべりに、なんの宣伝効果があるというのか。そのうえ、彼は若い予備兵役だったとはいえ、昼に皆が休んでいる時でも、ひとり窓から猟銃で鳥撃ちをしている男で、言ってしまえば、変わり者ということで、やんわりと避けられていた。事件を引き起こした人物として町中の興奮を誘っても、週末の夕暮れともなれば、なにか無用な余興のようになるのも、むべなりといわねばならない。

しかしあれは、奇妙に魅力のある男ではあった。公正を期すため、平野がわたしにとっては嫌悪感の対象でしかなかったとしても、このことは認めざるを得ない。小柄でずんぐりして、骨格が逞しかった。端正な顔つきで、それがどこか武者人形を思わせた。寡黙で男同士腹を割って話すということが決してなく、これが敬遠される決定因子となっていたが、女を前にすると、人が変わったように戯言ばかりを言う。女とおしゃべりし、彼女たちのわけのわからないおしゃべりを笑い飛ばしていた。

なにか彼のことを思い出したい気持ちが起こって来ると、椅子にかけ、いつもそうするようにこの苦々しい、重い衝動をつかもうと努力するが、ただ厭な気分になるばかりで、頭が混濁してきて結局あきらめてしまう。でもどうしてもあれの顔が頭から抜けない。ある夜、いつものごとく女どもとめちゃめちゃした後、さすがに昨夜からの騒ぎで疲れたのだろう。あおるように飲んだ酒もまだ残っていたのか、気づけば肘枕でごろ寝していた。ぽつりと「僕、性格が変わるからね」とつぶやいた。この男の鼾にはなんの興味はないが、たった一度だけ、本心をさらけ出したのがこの時だ。またある時、同じ家屋に住むようになってから、彼はみずからのろくでもない考えを開陳したことがある。料理店にゆき(いつもの食事は単調でまずく、ときおり皆でうまい飯を食いに行くのである)、なにかの拍子に女給が「戦争は恐ろしいものですね」と言うと、彼はすかさず「えっ、今は生きるにはすばらしい時代ですよ。いろいろとあたらしいことがはじまろうとしているのですから」。彼は淡々と○○主義の波というようなことについて喋り、そしてシチュ―を食べ続けた。しかしその時以外はあまり喋らなかった。皆、堅く閉ざした口に煮え切らない笑いを漏らしていた。帰ってから、平野が一人で寝てしまった後、まだ起きている者たちで、平野はバカなのか?それともじんぶつなのか?について討議した。「あいつは我々の慧眼を持ってもしても、まったく鵺のごとくで、読めないね。人にどう見られるかを気にするような男ではないが、ただ、人が見ていないところでこっそり勉強しているのも確からしい」「でも、あれは商大出だよ」「そう、だからやることはやっているんだよ。結局えらい奴なんじゃないかな」

はじめて会ったのはちょうど去年の夏のことで、彼は二十三歳だった。べっ甲の丸柄眼鏡をし、あごひげを蓄え、国民服を着ていた。会った最初の頃は、じつに精悍な姿に見えた。おもいがけず、一緒に売店を手伝うことになった。しょっちゅう連隊や部隊や師団の本部の者が昼食や夕食をとりに町にやってくる。兵隊たちの態度はおおむね友好的だった。共に過ごす日々の中で、わたしは高射砲が火を噴くのを見、敵か味方かもわからない飛行機の爆音をきいた。平野の態度にわたしの心を傷つける何か冷淡なものが感じられるようになったのはその頃からである。トラックで酒や品を運ぶ途中、地図を読みながらわたしは言った。「こちらでは幼い頃に女の子をかどわかして息子の嫁に育てたり、妾を持ったりするらしい。だから家屋にはあんなにたくさん小部屋があるんだ。ほんとうに紅楼夢だよなあ」平野は何も答えなかった。暫く気まずい沈黙が流れた。彼には終始うつむき加減で恥ずかしそうに笑みを浮かべているわたしの姿が見えていただろう。長い陰鬱なドライブから帰ると、彼はその晩、店の前にある通りで和服姿の女の子たちとくだらない話をしながら瓶ラムネを飲んでいた。「ここで仕事にありつく方法を考え出せないのだったら本を読んでナンになるんだろうネ」と、わざとこちらに聞こえるように大声でしゃべっていた。

半月ほどたって、わたしたちは違う宿屋にうつされた。宿屋とは名ばかりのボロヤで、粘土と木でできた壁は、木の部分があちこちが傷んでいた。二階には外階段でのぼる。すでに誰かが住んでいるようだ。模様の入ったすりガラスはどれも隣り合う二つの家に面していて、正面玄関をのぞいて、ぜんぜん日がはいらない。勝手口の方は、裏道ともいえない、ひとひとりようやく通れる幅の狭い小径がある。二間の部屋に板の間付き、こざっぱりとした台所と、やるせない同僚と。外見だけでも人並みに暮らしていくことがこんなにも情けないものなのだろうか。

部屋は二つ、一つは表、もうひとつは裏だ。平野に選ばせた。しかしやったすぐそばで後悔することになった。というのも、裏の部屋に行ったからだ。この男に借りができてしまったような、なんともイヤな気持ちになった。わたしたちはお互いよけいな話などせずに狭い部屋のなかで静かにしていた。わたしは部屋の隅で本を読んでいる。彼は近所の荒れ果てた公園に時々散歩にいったりするが、あとは、わからない。裏側の窓辺に何匹か猫どもが居座っていて、こいつらが蚤の原因になる、ゆえにわざわざ窓を開けて追い返す必要があったが、彼はだまってやっていた。

息をするのも忘れるほど忙しかった時期に、ハンパな休暇をとったことがある。家を出て、煙草を吸いながら、隣人たちの生活を観察した。おとなはやつれ、こどもはしんだ魚のような目をしていた。子供たちは暇でしかたがないらしく昼でも夜でも外をほっつき歩いている。大人はあまり家から出ず、たいてい、おんなは歳よりも老けて見え、本物の労働者の”ものの言い方”をする。しかし小さな子供がいるということは、ダンナは女房にまだ性欲を感じることがあるらしい。つい、そのような薄汚れた考えが脳裏に浮かんでくる。

いや。じつのところ、すべての女がつまらないわけではなかった。その日、わたしは”彼女”と話をした。くっきりと濃い眉、大きな瞳、縮れた長い髪と、小麦色の肌した美しい娘だった。公園のベンチに腰掛けて本を読みながら、足をバタバタさせていた。ずいぶん長いこと話をしたが、たのしかった。その晩、平野がその娘と、もう一人の女の子と一緒に、ベンチに座って話をしながら瓶ラムネを飲んでいるのを見かけた。この時にようやく、あの娘が、わたしに対してみょうに人懐っこかったのは、このためかと、合点がいったのである。

それから、わたしたちはまた物資の輸送支援に駆り出された。早朝に、眠ったところを叩き起こされた兵隊たちが乗っている軍用車の隊列に、うしろからついていく。霧が立ち込め、霧がきれると、さまざまな風景が姿を現した。茶畑、水田、枯れた草原を通り過ぎ、何頭かの馬が走っているのが見えた。国道をさかいに道路も切断された。そこから先はまばらに草が生えているのみである。鋼鉄の塊がとどろく音、兵隊たちの叫び声、やがて運転席からの若い将校の視線、また動きはじめる。もう大地が震動しはじめる。よくみると草の丈がほとんどないような黒い筋ができている。むかし馬車が通っていたのだ。これがこの隊列が走破しなければならない道である。野から野へ。後足を蹴り上げている赤い仔馬や、沼の光、路が途絶えたあたりで、きまってまっくろな棒杭が窓の横を通り過ぎた。わたしは車に酔い、あまりに長いこと腰かけているので足が抜けそうに痛んだ。一昼夜走行し、草原に朝陽がさして大地の稜線がくっきりと見えはじめる。ここから先は立ち入り禁止と告げられ、すべての荷物、はっきりいってしまえば闇酒の類いを渡して、わたしたちは引き返すことになった。今いる場所はおそらく最前線の近くで、部隊の行き先は監視哨だろう。いくつもの小高い丘がある。濃霧と泥濘、訓練と規律、そして師団長に対して何かしくじりをやらかさないかという恐怖心で常に不機嫌だった部隊と別れを告げた時は、心から救われたように感じた。このとおり、わたしは鞭なしに働いている。すべては金のために。この時、大地を相手に格闘している。迷わないように、この巨人の背中をしっかりと突き進むが、その体から破片が剥がれ落ちるだけで、ビクともしない。わたしに必要なのは、ものを運ぶタイヤの跡だけ。前輪のタイヤを交換する。もういちど、次は後輪のタイヤを交換する。だが自分の身体は交換できない。すでにアクセルを踏み込む感覚すらなくなった足も。直射日光が項を足蹴りにする。アルミ製の水筒で水を飲む、もういちど飲む。つかのまの休息をとる。休息なんてもの嘘っぱちなのはわかっている(きやすめとは騙しにほかならないのだから)休息が何なのかを知りながら、それでも休まねばならない、どうしようもなさ。遠くに丘があり、せせらぎのかわりに砂埃がまっている。軍用路の跡が見える。

夜、とある鉄道駅にたどりついた。蒸気の音、停車時の連結部分が軋む音が鳴り響いていた。安全確認している駅員の姿が見える。しばらくしてわたしたちはトラックから降りた。全身の痛みと、たえがたい空腹を感じながら、ふたり小走りに線路に侵入すると、2両の貨物列車が停まっていていた。真っ暗だった。さいわい、駅構内を通り抜けるのに面倒なことも起こらずに、そのまま突き進むと、いつのまにか田園地帯の道を歩いていた。

何百メートルか離れたところにさびしい集落があるが、目と鼻の先の近さということでもなく、だいぶ大きな河の対岸にあって、よういには近づけない。あたりをとりかこむ山のかたちはなだらかでも木々の様子はグロテスクで、おそらくは伐採した後に再び植えたもの、長年放置されてきたのだろう、どこまでも広がっている森がこのようだった。「何もねえな」とわたしは呟いた。「わからん」とだけ答える平野の息が荒い。とまれ、しきりにおもくなる瞼をあげて、河のむこう側にある、どんよりとしたくらやみを見ているばかりだった。くらやみのなかに見ていたのは青春だったのかもしれないし、ただの土塊だったのかもしれない。

結局、二人とも余計な口はきかず、夜中の3時、4時まで彷徨いつづけて、やがて空がしろみはじめて、明け方ようやく集落にまでたどりつくといった有様だった。雑木林の陰にひっそりと建つ黄土色の農家を目指して小道を走っていった。「早上好、太太」と、わたしは戸口に現れた小柄な老婦人にお辞儀をした。するとこちらのぶしつけさに驚いたふうもなく、婦人は少しのためらいも見せずに答えてくれた。田舎の人は後ろ暗いところで生きているものに篤いところがある。わたしたちは米、ゆがいた芋や漬物といった食事に有り金のたいはんを使った。その後、ここでひと休みさせてくれないかと頼んでみたが断られて、また人けのない路地を何時間も徘徊する羽目に陥った。

すでに冬ははじまっていた。もしもあの婦人に助けを求めていなかったら、飢え死にしていたかもしれない。集落にある家々は人ひとり宿をかしてもなんてこともないほどの広さがある。宿をかしてもらえないかとたずねまわったが、なにせ”日帝”の手先だ、そのうえ着ている服があまりにも汚れているときている。無駄骨に終わった。仕方なく田畑の広がった谷間をくだり、途中で見つけた、ひどくわびしげな物置小屋のなかに忍び込み、寒さに震えながら一夜を過ごした。もの悲しい、疲れ果てた夜だった。

朝、蒸気機関車が通り過ぎる音で目を覚ました。河沿いに並ぶペンキの塗っていない小屋を横切り、丘の中腹に広がる紅葉をかすめながら、汽笛の音を響き渡らせている。陽に照らされた黄色の葉が、あたり一面を輝かせていた。そこらじゅうで羽根虫が羽音を立てながら飛んでいて、その様子は光の粒子が風に乗って空に舞いあがっているようだった。平野も眠い目をこすって起きあがった。「おい、どうする?このまま帰ろうとしても、どうせ途中で腹が減るか喉が渇くかして死ぬしかないだろ」「臆病だな。そんなに生き続けたいのかね」と平野は言い放った。この男、中国語を解さず、これまでは何もかもわたしに頼っていたが、窮地に追い込まれていると気づいたのか、再び挑発し始めたのだ。わたしは答えた。「まあ、つまらんことで口論するのはよそう」彼が喧嘩を望んでいたとしても、わたしも特に止めるつもりはなかった。ふたりが腹を立てて、今にも殴り合いそうなときは、協調を説く時ではない。ちょうどその時、また汽車が通り過ぎた。轟音と共に地面が揺れ、煤煙の臭いが漂ってきた。機関車の蒸気、油で黒光りした貨車の熱気が、山間を突き抜ける鋼鉄の嫌な臭いと一緒に鼻をついた。ふたりは何かを言い争っていたが、線路沿いではあまりにも騒音が酷く、平野が何を言っているか聞きとることさえできず、わたしの声もかき消され、振動が声帯まで伝わるようだった。汽車が去った後、自分が何を話していたのかすっかり忘れてしまった。彼はふてくされた様子で、すべてがバカバカしいと言いたげな顔をしていた。鮮やかな黄色の山々と、しずかに風が吹き抜ける自然の中で、ふとわたしは深い孤独を感じた。この男と一緒にいることが、これほど心に重くのしかかるものだとは、今まで思いもしなかった。ただ立ち寄った人のように、どこかへ行ってしまえばいいのにと願う気持ちが心をよぎった。

10

この数ヶ月は、わたしにとっては非常につらい時期だった。商店の手伝いをはじめて以来、本当に興味を持てる人と知り合えることもなく、冬が進むにつれ、煤で汚れたつめたい雨粒が降り、果てしなく続く労働の日々に体調を崩し、喉を痛めることもしばしばだった。辛気くさい畳敷きの部屋、迷路のように入り組んだ狭い路地、冬の疲れ果てたような、どんよりとした亜鉛色の空、明けても暮れても一緒にいて、日に日に無口で陰気になっていく同僚、焦げついた天ぷら油や、子供と洗濯物の臭い、すべてがうとましく思われた。なによりやるせなかったのが、たまにあてがわれる一日だけの休日が、おのれの無力感をより深いものにしているようにしか思えなかったことだ。たまっていた疲れが一気に溢れ、病人のように床に横たわり、 ひたすら怠惰な一日を過ごしていた。歩けるくらいの精神力があるときは、外をぶらぶらして、他に働き口が見つからないかどうか当たってみる。日本人町のアーケードは奇妙に狭く、埃っぽく、両側にはガラリ戸をおろした木造家屋が立ち並んでいる。話に応じてくれた人たちは、愛想はいいものの、どこにいったらいい仕事にありつけるかはぜんぜん知らないようだった。わたしは、なにがなんでも、リュウからの知らせが届くまではここにいて、その後、また帰郷しようと考えていた。話をした何人かは口々に、工人…近頃ならば紡績労働者になるのでもない限り、ここにはまともな職はないだろうといった。またある一人の若者は、近頃青年間の覚醒が目覚ましく、それが一方で紡績労働者たちの不穏状態を同時に引き起こしていて、年末を待たずにストライキに巻き込まれたといっていた。裏で糸を引いているのは赤魔たちで、緊密に指導されていると、彼は熱っぽく語っていた。一日中仕事を探して歩き回っているうちに、体は埃まみれになっていた。朝、目が覚めると、まず真っ先に「まともな仕事がない」という憂鬱な思いが浮かんでくるようになっていた。

<随時更新中>


いいなと思ったら応援しよう!