自分の弱さを知る(2)
ちなみに、やはりというべきかエリク・エリクソンの批判者は少なからずいるらしい。のみならず
その内容の正当性についてはたえず揺れている。
なので確たる証拠も理由もなくこの理論を信じるわけにはいかない。そもそも斯くも体系的だと、時代の推遷、動向とのミスマッチが生じないはずがない(それでもなお惹きこまれる内容なのもまた事実であるが)
一点強く言いたいのが、アイデンディティとはそんなカッチリ定義できるものだろうか?ということ。
エリクソン曰く「”どういったヒトとして育ったか”と”社会から望まれているヒト”との和解」とのことだが、この記述に若干の違和感がある。”社会から望まれる”って?…
現実の社会はそんなに個人に関心を払わないはずだ。実際の労働の現場にエリクソンがいうような役割の厳格さはなく、良くも悪くもゆるいものである。
なお、いったんエリクソンから離れて「アイデンディティ」の語感だけで私がイメージするのは、どんなに逆境が待っていようとも負けずに社会に立ち向かっていこうとする覚悟みたいな、ざっくり言えば、自分が自分であるためにはどんな困難でも乗り越えてみせる!って気概だ。
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以下は、毎日寝る前にiPhoneの画面をポチポチとタップしながら、眠くなるまでテキトーに書いてる回想/雑文の類いなんでテキトーに聞き流してほしいのだけど。
十代の後半、私は中野のボロアパートに住んでて。週6は仕事をして休日はひとり黙々と読書をしていた。上京して1年半くらいふわーっとした独特の感覚があって、それは関東平野の慣れない気候とか夜の仕事でのヒリヒリするような体験とかその他諸々のカルチャーショックとかいろんな要素が混じりあってて言葉には出来ないけれど、
もう二度と訪れることのないなにか熱にうなされているような、それでいてリリカルな感覚である。あの頃になにか文章を書いてたらいい作品が出来た気がする。中央線の電車がガタガタ五月蠅くとも構わず音楽を聴いていた。ディアンジェロ、ブレイズ、ドクタードレ、セオパリッシュ…、すべて懐かしい。
風呂は狭くて深い土管みたいな浴槽で自分は184㎝の大男なんで入ってもちっとも温泉気分にならない。あと身体も髪も石鹸で洗ってた。石鹸で髪洗うマンだった。夢や希望に満ちあふれていた、ワケでもなし。強い想いの一欠けらもない。やりたいことな~にもなかった。強く記憶に残っているのはなんでオレ東京に来たんだろ?ってむなしい想いだけ。エリクソン的に振り返ると、あの時からすでに落ちこぼれになるのは決まっていた。今では何の取り柄もない底辺中年である。なお後悔は微塵もない。
<続く(のか?)>