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「存在と時間」を読む

昨年の11月頃から読んでいた「存在と時間」をようやく読み終えた。あしかけ3か月。647ページ。いくつかある日本語訳のなかで、今回は高田珠樹訳を選んだ。

どうしてもこの訳書を読みたくて、読んだようなものだ。

講談社文芸文庫の「ハイデガー 存在の歴史」を読んで以来、気になっている人だった。ハイデガー研究者、とりわけ日本の研究者には、ハイデガーとナチスの関係を妙に擁護(弁護)したがる人がいる。

そのなかで高田氏はハイデガーに対して突き放しているような、精神論ではなく、あくまで客観的事実を重んじる視点をもっており、好感をもっていた。もちろんあまりに一般的なハイデガー=ナチという図式も、これまた思想や文学の営みとは無縁なステロタイプの低さなのはいうまでもないことだが。

肝心の訳業についてだが、これまで2度、別の訳を通読したうえでこう言うのだが、かずある日本語訳のなかでもダントツの読みやすさである。

以下に、本書のポイントをメモする。

ハイデガーは現存在の存在を「気遣い」であると述べている。いっぱつでいうと、彼がもっとも述べたかったことが、この一言に凝縮されている。

前半の、存在論の序説「存在の意味への問い」と「現存在の存在を問う」までの展開は、その論考の鮮やかさにおいて圧倒的であり、これぞ哲学書!というスリルに充ちているが、そこからやや唐突に「良心」とか「ありうべきありかた」とか、言い出されるのがこの書物の白眉というか、

この「気遣い」なる概念が導入されるあたりから、一気に不穏になっていく。

さっきまで現象学の講義をしていた教授先生が、司教の格好になって再登壇するというような、ちょっと哲学らしからぬ通俗性があって、そこらへんが絶大なる人気の秘訣なんだろうな、と思ったりもする。

この「気遣い」(自分に先んじつつ、どこそこの内にすでに在る中で、何々のもとに在ること)を分析していくと最終的に「時間性」にいきつく。時間性には、時間の働きを構成する3つの地平=「脱自態」がある。いわく、

「将来」 →~おのれへと向かって
「在来性」→~に戻って
「現在」 →~を現れさせる

別言すれば、気遣いとは、この3つの時間性の地平のうちにあると、ハイデガーは主張しているわけだ。

それまでテツガクシャたちは、時間を通俗的に扱い過ぎていた。本書でやり玉にあがるのは”哲学王”ヘーゲルであるが、その(精神現象学のなかで扱われている)時間概念は「点性としての否定の否定」とある。

ハイデガーはこれを「どの点も自分を対自的に定立するということで、今はここに、今はここに、ということが念頭に置かれているに違いない」と述べる。

と同時に、かたや一方で「時間は精神をいわば収めることができなくてはならない。一方、精神のほうは時間と親和的でなくてはならない

…とも主張する。したがってヘーゲル流の「点」(いつやるか? 今でしょ!)のみに依拠するのは不十分ということになる。

「時間性」には「現在」「在来性」「将来」という”行き先”があるのだ。そしてこの3つの地平の統一が、世界の形成でもある、と言う。ここにいたって、ようやく冒頭で掲げられていた「時間を存在了解の地平として解釈」することが可能となる。

時間性の脱自的な一体性、つまり将来と在来性と現在のそれぞれが身を乗り出すかたちで「自らを脱する」動きの一体性、これが自分の「現」として実存する存在するものが存在しうるということが可能であるための条件である。私たちが現=存在という名称で呼ぶこの存在するものは「明けられて」いる。現存在がこのように明けられているとき、それを構成する光は、この存在するものに時おり生じる、周辺を照らし出す明るさの力や光源というかたちで存在相的に手近に在るわけではない。この存在するものを本質的に明けているもの、つまり、それを自分自身にとって「開かれ」かつ「明るく」しているもの、これを私たちは、あらゆる「時間的」な解釈に先立って気遣いとして規定した。この気遣いが、現の開示性の総体の基礎となっている。そして、この明けられているということがあって初めて、何かを照らしたり究明したりする、あるいはおよそ何かを感知するとか「見る」とか持つといったことが可能となる。この明けられていることに関わる光を理解するには、何か自分たちの中に植え付けられていて手近に在る力のようなものを探していてはいけない。現存在の存在体制の全体、すなわち気遣いに対し、それが実存論的に可能であるための統一的な根拠を問いよりほか、この光は理解できない。脱自的な時間性が現を根源的に明けている。これこそが、現存在のあらゆる本質的な実存論的構造の一体性がそもそも可能であるための主たる統制原理にほかならない。

ハイデガー「存在と時間」

もっとも、かのような論を展開していくと、必然的に「自分」ということが大きな問題となってくる。ハイデガーはこの「自分」(現存在の実存性)の超克を目指したのであるが、結局うまくいかなかった。

時間性とは「既在しつつ、現前させる将来である」云々と語るときに、それは否応なく 「自分」を想起させるだろう。この状況を打開するためには、気遣いと時間性に関する議論を再考し、上記の数々の用語を撤回する必要がある。

(…オワタ)

木田元がいうには、ハイデガーの哲学は、日本人の心情と相性がよいのだそうだ。ハイデガーにとって存在は生成=「なる」であり、いわば、古代ギリシア(ソクラテス以前)の自然観の”再来”を「待つこと」

これが日本人の自然観と通じるものがある、と。

まあ、木田には言う権利があるとして、それを鵜呑みにするのはちょっとどうかなとも思う。世の中には「江戸時代に還れ」とか「人間は自然のなかに生きるべきだ」などと主張したがる類いの、ちょっぴり○○○な人たちがいるのだけど、ハイデガー哲学は不当なほどに相性が良すぎるのである。

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