#15 誕生日はキライだ
3月1日は、妻の誕生日である。本来なら今年はどんなプレゼントを贈ろうか数週間前から考えるのだが、ここ数年渡せていない・・・いや渡していないのだ。
それは、ある一言がキッカケでキライになってしまった。
「フツーこんなの貰っても嬉しくないんだけど」
私は、バックドロップを喰らったような衝撃を受けた。
冷静に考えれば、確かに毎年当たり前のように贈る花束はどうかと思って、今回は観葉植物にしたのが、気に入らなかったのか?昨年の花束はフツーに受け取ってくれたのに、何故だ!
何かを壊されてしまったようなポッカリ穴が開いてしまったのだ。だから誕生日がキライだ、と言っている自分もキライなのだ。
「花束貰って嬉しくない女性はいない」と世の男性達は一度くらいは聞いたことがあると思うが、こんな間近にいたんだと思うと、余計に腹が立ったと同時に悲しくなった。
決して人格全てをキライになったのではなく、贈り物についての考え方がキライなのだ。
毎年2月中旬になると、決まっていつもソワソワして落ち着かなくる。今年こそはと、自分の気持ちを整理して、プレゼントを贈ろうと考えるのだが、もしまた心を抉るような罵声を浴びてしまったら?と尻込みしてしまう。
まるで、告白しようかどうしようかモジモジしてしまう青春時代のあれだ。
「だったら何もしない方がいい」と都合よくエヴァの主人公のようになりきっているのだ。
「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。」と思いつつ・・・それが感情移入しているせいか、以外と心地良かったりもする。
そして、私の誕生日問題は、今も平行線を辿っているのだ。
そもそも誕生日とは?
私が考える誕生日というのは、自分を祝ってもらう日ではなく、産んでくれた親に感謝する日である。
過去にどこかの会合で聞いた事があり、決まってバースデーメッセージには、この言葉を自己啓発本ばりに送っていた。もちろん自分の誕生日には、毎年親に吃りながらぎこちなく伝えている。
誕生日を祝うことは、とても良いことだとは思うが、プレゼントを受け取ることに慣れてしまうのは良くないと思う。そもそも贈り物とは、気持ちを受け取るものであって、評価することではない。
自分は贈りたいのか
プレゼントを「贈りたい」か「贈りたくないか」と考えれば、贈りたいに決まっている。「だったら今年は贈ればいいじゃない。」と、心の自分はそう言っているので、少し視点を変えて考えてみる。
私の勘違いで、花束とか観葉植物とかの問題ではなく、気持ちが感じられなかっただけなのか、それとも花のセンスが悪かったのか本当のことは知らない。
本当は、心からの贈り物が欲しかっただけのかもしれない。社交辞令的なお年玉のように扱ってほしくなかったのかもしれない。色々考えたところで、正解なんてわからないし、わかったところで妻を見る目が変わるわけでもないのだ。つまり自分の気持ちを素直に贈れば良いのである。
それだけのことである。
と言うわけで、今年の誕生日問題は決着をつけます。
自分からはじめた、イモプライドを終わらせます。
贈ります。
「誕生日がキライ」をおめでとうと言えるように